映画「LAMB」思い出し感想

 「ビバリウム」は赤ん坊を手に入れることで、皮肉にも安全で波風立たない恒久的な家をで終生を過ごすことになる話だった……と一文でまとめるには無理があるし、この言い方は正しくない。しかし「異質な生命である赤ん坊が突如男女ふたりの生活に組み込まれる」ことによって「人生が大きく変わる」という大まかな要素では「ビバリウム」と「LAMB」は似通っている。どっちも同じ配給会社ということは関係するのだろうか。

 昨夜「ビバリウム」を観たことによって「LAMB」の評価が自分の中で上がっている。似通った要素を持つ比較対象が出てきたことによる効果か。これまでも決して低評価ではなかったけれども、「ビバリウム」と比較すると「たとえ周囲数キロにわたって隣家のないアイスランドの田舎でも、生きている人間の世界っていいなあ」と世界が輝いて見える効果はある。でもそこじゃないよね。描写によって表す人生の物語の表現力に改めて感じ入ってるのだ。

 さて「LAMB」。冒頭の視点は悪魔なのか。クリスマスに悪魔が羊の腹に飛び込んだのか。キリスト教に詳しければもっと理解の度合いが深かったでしょうが。思い出せたのはドストエフスキーの『悪霊』冒頭に引用されてる部分くらいですね。でも悪霊が飛び込んだのは豚だったな……。

 楽しみの少ない、「生きる」という毎日を繰り返す夫婦のもとに異形の赤ん坊がやって来る。赤ん坊の存在により、夫婦の間には血の通った日常生活が蘇る。要素を思い返すとほんとに「ビバリウム」と対照的なんですけど……。音楽にのってダンスをするシーンも両方にあるなあ。「ビバリウム」ではそこで子どもとの関係がいっそう冷え込むけど、「LAMB」だといよいよ家族の一体感が生まれてくる。あとセックスの点でもね。代わり映えのない毎日の中で「何かしたいからやらせてくれ」って男の側からせがんで始めた「ビバリウム」。対照的に、自分たちは生活の空間と時間を共有する生存と経済のパートナーであるだけでなく、夫婦という情をもって誓い合った仲なのだという実感が蘇ってベッドシーンに到る「LAMB」。確実にセックスレスだったはずだもの、あの夫婦。

 生きる毎日の中のいろんな行為、食事、お風呂、眠ること、外へ出る事、いろんなことに喜びが滲んでいくのが「LAMB」だったけど、しかしそんな美しいキラキラした日常の映画ではなく、猟銃を手にする登場人物、アダの牧羊犬に対する態度など、拭いきれない不穏な霧が映画全体をしっとりと湿らせていて、そこが良い。

 予告でも本編でも、見せない部分の見せ方がすごく上手だったのがこの映画。本編でのアダの裸の見せ方もそうだし、予告でアダの手を引き、もう片手には猟銃を握って霧の草原を行く後ろ姿が映っていて、あれ実は誰の後ろ姿か分かってなかったんですね。本編でびっくりしたなあ、あれは母親だと思い込んでいたから。

 ラストシーンが非現実的な薄曇りの空だけを背景にして悲しみと日常(夫婦の生活全体をとおして見れば非日常的な幸福)の終わり、破壊の空虚だけが描かれたのは、これ以外のラストシーンにしようとしたらどうするだろうと自分でも想像したけど、上手く浮かばないや。やっぱりあの瞬間で終わらせるしかないかなあ。悪魔らしき存在に関してあんまり説明しちゃうのも野暮だし。意思疎通できてるのか、観客の感情として本当に夫婦の子どもとして受け入れていいのか迷っていたアダが、ちゃんと会話できてて、アダから人間の両親に向けて感情があったんだって分かった直後に奪われるのは、ちょうどいいと思う……。ちょうどいいって何だ…物語と謎の味わいの調合のバランスの点のことだ……。

 同じ人間の形をしていても家族になれない「ビバリウム」。
 たとえ異形でも家族の時間をすごした「LAMB」。
 遠く離れていても血の絆が強く結ばれている「ボーダー」。
 実はどれもちょっとずつ嫌な気持ちも味わう映画。

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