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「内臓とこころ」を読んで

この本の著者である三木 成夫氏は解剖学者であり、東大医学博士。この本は保育者向けに開催された講演をまとめています。

語りかける文体から氏のウィットに富んだお人柄を推察でき、当時聴いてた皆様の会場の様子もまた伺い知ることができ、まるでその場の後方に席を置いて講演を聴講しているかのような感覚で読むことが出来ました。その様子に思いを馳せながら、三木先生と書かせて頂くことに致します。

「内臓復興」、そう、はらわたの話を、難解な表現もありつつ引き込まれてゆく文章に、突然何かをほのめかすような、ふくめるような言葉の連続に、当初私の頭脳は棒でひっかきまわされているかのようでした。

人が胎児として母体に存在し始めてから出産を経てこの世界に生まれおち、3歳くらいになるまでを順に解説されています。

古代魚から爬虫類、そして原始哺乳類へ。地球上に生まれた生命の1憶年の歴史というドラマがが母胎の中で演じられる、というくだりは、学生の頃の生物の授業だったか、本で読んだか、テレビの化学ドキュメンタリー番組で見たかもしれない内容でした。

顔はかつての古代魚でいう内臓が露出したもの。人の言語と嚥下機能はかつて古代魚のエラであった。どうしましょう、読みだすと止まりません。

その解説の過程で、植物の桜とモミジ前線、動物の冬眠、鳥の渡りの話、太陽暦と太陰暦の話、桃源郷の話と、縦横無尽に繰り広げられる奔放な展開。ああ、そう言えばと、1章読み終えるごとに「ハラオチ」してゆく。50代の私は、再度確認しながらも改めて気づかされ、断片的に見聞きした知識がつながる感覚を覚えたのです。

読んでゆくうちにそれは、えもいわれぬ心地よさを感じました。サーカディアンリズムという概日リズム。実は私たちの暦の24時間ではなく25時間であり、ムツゴロウは太陽と、波の満ち引き両方の影響を受けて生活していること。寝不足やなんとない不調に原因を見いだせない私たちよりも、ムツゴロウの方がもしかしたら、地球宇宙と仲良く暮らしているのでは?と、はっとするのです。

三木先生は内臓系(私たちの無意識に動く内臓の動き)でいうと消化腺と生殖腺、体壁系(私たちが意識して動かしたり感じ取れる手足などの運動器管や目や鼻といった感覚器官)でいうと睡眠と覚醒日リズム。それらにより、人体の中に小宇宙が存在しているといいます。

そういえば!と膝を叩く私。私たちは「これはとにかくそういうことになっている」とただ知識として学生の頃暗記してテストに臨んだという記憶が、とたんに命の黄金律のような知恵としての輝きを放ってゆくのです。

もうどれだけぶっとんだ言葉の表現であっても、なぜか受け入れてしまうのは、暗記であっても成績が悪くても、学生の頃勉強しておいてよかった、という思いでした。これは符号、暗号のような知識が、人、生き物として祖先からのDNAが知っている「知恵」と結びつく感覚なのかもしれません。

私たちは霊長類として本能を頭脳でコントロールできる、と教え込まれてはいませんでしょうか。植物、動物よりも優れていると思い込んではいませんでしょうか。

三木先生は、人は生まれてから「なめまわし」で世界を感じ取り、その後「指差し」から、心で感じ取ったものを頭脳で固定し、名前、意味づけをすることから高度の機能に発展すると解説します。

それは皮肉にも、目に見えない、言葉に出来ない何かを置き去りにする工程ではなかったかと。かたや身ひとつで自然を壊さずに生きる動植物、かたや宇宙のリズムを脇に置いて、地球、自然環境を暮らしやすさを理由にかえて生きてきた私たち人間。

私たちは高度な脳機能を手に入れることで手放してきたものを、科学技術や文明の名のもとに補完してきただけに過ぎないのではないでしょうか。

体壁系は「脳」との関与でありつつ「こころ」とは内臓系に根差したもの、これが「内臓復興」として三木先生が伝えたいテーマの根底にありました。

私はこの感想文を書くにあたり、5回読みなおしをしています。けれども、日々の暮らしのなかで言語化できないもやもやを抱き「そういえば!」となった時また戻ってくる場所、それが三木先生のこの1冊なのでしょう。

またこそっと、保育者向け講演会の後ろのドアをこそっと開けて後方の席に座り、「内臓とこころ」という三木先生の講義を聴講したいと思うのです。


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