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夜咄

この傍にいるのだ、あれは
人の眼に見えないようにした家の
襖の奥に

大きな蝶が夜飛んでいる
黒い蝶がぎらぎらした眼の下に
飛んでいった

生首を一杯貰おうか
覗き込むようにして響いてくる声で
遠ひ睡りの向こうで何かを飲み乾す流れが
擦り切れて空いた穴をうめていく

吹き消すように
ひとつきりともった電灯が記憶の暗さに
踏み入れていく
「帰ってきたんか」
あどけなさが埃に吹き溜まるがらんとした部屋に放り込まれたように灯りにとどまってゐる
朝なき家で着物の袖を握りしめた少女は
女の演じる男のように少女の下地を保ったまま、上着の下からしなやかな動きで痩せた腰や太腿に優美さをあたえている
後ろ髪はきつく結わえて後ろへ垂らしているが、ほんとうは男でも女でもないと知られてしまうのを畏れて息を止めているように
目をそゝぐ渇きに聲を殺していた

女をあらわす艶かしさを濃く塗られた白粉に載せた唇の真っ赤な紅が、小さな影に入っていく

息が荒ぶるが半分片頬で笑顔を作ろうとした

自分の影に小さな影が入ってくる
少女は息が続かず、息継ぎをしては硝子のような声を呑み込んでいる
自在に魂のあこがれる彼岸を知って
動きのない空中の羽毛のように消えていく
霊にしたゝり
うすい輪郭から滲んではみ出ていく
二本の突起が水脈をさぐり
溶脈をえぐる蜜を塊めていく

何も喋らずに鳴った喉は狩りの女神への祈りを捧げているやうに
「今幾時ですか」と
つながれた手足で這い出して、放ち飼いに障子の硝子越しに静かな呼吸なき軀が私の肌を嘗めている、激烈な阿片でもあたえたやうに面貌は蛇ののたる眼に心消え、朦々として蒼ひ頬は生白く
夜着を被ってゐたものを古い生殖の匂ひを見出したやうに
肉體をなげだしてゐる

「ここで、ここで死んだ・・」
十字をきり
「野蛮な地獄では歓迎されて一時は支配できても、天界は支配出来ない。占領は出来ても楽園にはならない。心ある天使が魂に光を送りはしないだろう。無限の先に無限があるように不安に駆られ深い悦びをあたへられることはないのだ。」
電灯が紫色に見えてゐた、頭髪が殴りつけられ薄い霧がかかるくらゐ神経が火花を吹き出して不甲斐なく転げぶつかった
あっけにとられてこの眼で見た悪魔の前歯が突き出されるのを見つめた
止める事の出来ない笑ひが一段と高い声で沈黙におしまひをうつしていく
天井を叩くように鳴る音の後ふいに消えてしまった電灯はなかなかつきそうになく
眼や口や手はぱつたり止まって赤い光が大きな影と写ってゐた

いつまでも温もりも色あひもなく
向こふの壁に私と妹との影が二つ並んでゐた

瓦斯燈が楓の葉を屋根の下に引く沈んで見せている。悪戯をする者もいないのにあの窓は青く光るのだ
切支丹屋敷にいた伴天連が封してけして開かないように密閉家(あかずの家)という家にしたのだ
「けして云ってはならんぞ、
廊下の障子が幽かな足音を立てても
お前の身に吉い事はない気がするでな
支那で謂ふ鬼とか天狗の化けた者ぢゃらうか
切支丹じゃ悪魔に見込まれたのぢゃと
掴まって共に殺されるんぢゃと」
澪はおかしくなって独り笑ってゐた

日暮れ近く迄帰りを待っていても誰も来なかった
「愛する事の出来るものでなくては生命が無いと僕は思ふのです。肉體に煩悶した者の矛盾よりも、みづからの内に神を信じる者は皆切支丹ですよ」
恋人に逢ふことは、自分に何かを与えてくれるかも知れない奇蹟を待ち思ひつめる
もがく無量の思ひを宿しそこに「かけあひ」が失われないやうに欺く自己告白
許しゆるさない秘密を告げてよいか、告げない方がよいか
燃えるような歓喜の希望が生きている屍を晒す艶聞に死しても、恨をつくるおもひで契り何度も眠りこむ
死しても穴をおなじうせんと血の涙を流しながら、生まれたといふことは死ぬといふことだと笑顔もなく逆らえない欲望を振り返っていた
深くえぐられた水底は水の流れを変えてしまう、完璧だった花は揺れている花に触れようとする蜜蜂を振りはらえないのだ

家なんかありませんよ、そこの原っぱですよ。萱の中に黒い石の頭が見えるぐらいで人家の花も水もありはしない
縹渺とした影の中に澪が切支丹の十字架を握りしめて祈りを捧げていた
幼少期の澪が聞いていた伴天連の屋敷はすでに消え失せ、ただ黒い大理石のボモスが遺されるのみで石にはスピリタレス(霊の人)と刻まれていた。
死者の魂は死なず単に蘇りを待つコイメテリオン、眠れる地と切支丹に異国でよばれていた秘蹟の地には霊の嵐が体内に渦まくような磁気があり、ねじまがる蛇のやうな古木が日傘のように影を落していた

理性は余さず砕かれるのを感じていた
夜ごと首を愛でていただけでなく
吸血鬼になった妹を私は何度も抱いていた
それを姉である澪に隠していたのだ
何度も首を切り殺しては首を抱きしめて
撫でながら語りかけ
涙を流しながら夜を過ごしたかとおもえば
また首が繋がった身体を抱きしめて
愛欲を満たしていた
妹の首は淫欲の妄想に苦しむ不眠の夜など知らぬ者の如き顔である。
この首と並んで眠る自分の顔の如何に不健全に病の如く青褪め、頽廃して見える事であらう。恥じるに当たる永い涙の忍従は血と皮を被せた許りの軀を引き剥がし血が流れ出ずにはゐなかった。
「止しませう、貴方の方にも自身にも」
首を切り離さないと外を出歩いてしまう妹の身体を優しく抱きしめてはなさなかった。
「之はおあづけよ」
頸を撫で、はらを、恥骨を撫で
淡紅な薄い唇から漏れる声は、未だ底知れぬ闇の世へさらっていくような甘い眼つきから
口に押し込まれるやうに黒い口を開いた
何喰わぬ顔ですました
自分の魂が髑髏のやうになって野ざらしになってしまう
「肉體にとっては太陽が神であり、精神にとっては神が太陽です、虚無を神とする者に喜びや淋しさはどこから来るのでせう
自然と運命の為めに絶望に陥る良心を、偶然な自然の現象だとのみ思へますか」

全てが覚醒したまま眠りに入り、淫れては
記憶を灰に火にくべているようだった
かきむしる官能が永遠に衰える事がないように
悪魔よ、自ら毒を呑むがよいと呪ふ夜が続いた

「お兄ちゃん、百合の花綺麗やったね」
不思議な事に凛は私が目で見ていた光景をピタリとあてていた、といふより一緒にそこにいたかのように正確に言いあてるのである
昼間もひよわな光の中で戯れる藪の中のように薄昏い一室にいるに関わらず
妹が口火をきる瞬間が私が見る瞬間であると気づいたのはしばらくしてからであった。
私が妹の軀と情交をかわした時であろうか、眼に見えぬ絆が繋がれたやうに私の触知を妹は手ざわりまで感じ取り私の欲する事を同時に察し、捜し物にまで答えるようになり
軀といふより霊なる軀が混ざってしまったように感じられた。すでに鬼人と化した妹は人である日常の感覚を私の感覚で味わい悦んで人間といふ存在を維持してゐた

軀に飛び込んでくるやうに眠りこむ頃になると妹の夢を見るようになった・・遠ひのか近いのか真っ暗な外の闇の中で妹の中に私はゐた。鬼火のように真っ赤な眼が私を誘いこみ、人を追い喰らひ交わり日度に違う人間を襲う奈落の夢は繰り返し終わろうとしない。
地上の生を隔てる仕切りから目を覚まし、ハっとして妹の軀に触れてみると睡ってはいるが、何か入口の鍵が開いていたり不自然な節がある
開いた鍵の向こふには澪が立っていた。

「私知ってるんや、お兄ちゃんが凛の軀と何してるか・・知ってるんやで
どうして妹やないといけんの?何でや、こたえて!」
見つめる眼差しを覗き込む度に
部屋の向こうの凛の唇が慄えるやうに動いた
「お姉ちゃん・・」
澪「あたしや駄目なん、あたしが代わりにしてあげる。お兄ちゃんの好きにしたらええ!あたしはずっとお兄ちゃんの事好きや・・でも今のお兄ちゃんは我慢出来んよ・・何でや」
凛の唇が再び声をあげずに微かに動いた

澪の体を抱きしめると、着物の布を剥ぎ取り肩を顕に白い乳房が溢れでた
「綺麗や・・お姉ちゃん」
猥褻な手癖、指癖がそのままに雨滴のやうに奥深い部分に流れていき
骨だけのような指が夜に身体をそわせていく度に澪の軀は縛られてゆく

もう愛さないで
撫でないで
昏いくだよりもっと昏い道をかくすたびに
さぐられる嫌悪はむなしくゆるんでいく
無数にこまかくひきのばされた私と兄と妹が混ざりあうように性器を合わせていた

お姉ちゃん・・
じっと見つめる瞳を抱きしめるように
引き寄せると両腕の間へ抱へ込みぎゅうというほど唇をおしつけた

ぢっと首を見つめて涙がとめどなく流れ
やがて首を前において開いている目をつむらせる
首級の面に飛んでゐる血を静かに拭き取ってやる、外は風の音がいよいよ烈しくなり
綺麗な靴がぬかるみにはまり泥だらけになっていく

自らの息を吸う音を聴きながら、澪は自らの中に凛の目が見ていた景色を見た・・あの黒い墓石の下には石室があったのだ
ミダスにも似た禍々しい冥府が渦巻いて石段の下には殉教者が眠る石棺があり壁にはヒエログリフが刻まれた大理石の小さな門の梁と側注が埋め込まれていた。しかもその棺の一つには遺体は見いだせなかった・・その汚鬼はただ蘇りを待ち聖霊の迎えることもなく異端の秘蹟を望み「尊い血」を杯に呑み干した。自らの骸に悪魔の初子の魂を迎えたその姿は、澪の目に時の記憶を越えて心臓を肋骨が突き破るような血の供儀の化身として石室に現れた、その魂は自らの朽ちる洞穴を切り裂き監獄の新しい囚人をみつけたのだ
不死への聖なる祈りは蛇に生命をすりかえられてしまったのだ

私と姉妹の瞼裏に同じ汚鬼を映し 
闇に降らせて灼熱する薪の火が二人の手に握られた

薄ら明かりがその全身を包んでゐた
「ただ夜になったから明かりをつけると云ふだけではない。」
十幾本かの十字架を遠巻きにし立てる薪の火が十字架に燃えうつり、燃えうつった火が肉に喰い込む
煙の中を落ちて倒れ、隣の十字架に素裸のまま縛りつけられて唇を噛み眼を屹と天に向けてゐる。それを見続けようとする頭髪をむしり真っ赤な息を吐く程に荒々しく地びたに放り投げて
「帰らうよ・・」
「ゼズス・マリヤ、キリエ・レンゾ、アーメン・デウス」
殺戮は悪しきものと閉じ込められる・・
「いと高きお方がおまへに命ずる
穢れた霊を清める力を持つお方がおまへに言ふ
吸血鬼よ
おまへは死んで生まれた娘よ
飢えた雌狼よ蝙蝠よ
悪魔と血を交えたものよ
さあ、去れ
この場からひきさがれ
この魂は神のものである・・
魔をはじき
清らかに光り輝け
主、イエス・キリストの御名において
アーメン」
月の祝祭の半月の翳りの中で、澪の十字架についたサフィルスの蒼玉が光を吸って透明になっていく
光の糸くずが氾濫して円環をとじ
凛の額に聖霊を封印してゆくと
曙に逆行するやうに
脊髄が蛇のように沈んでゆく

三位一体なるいとも尊き唯一の主
世の罪を除き給う主の子羊
今、主のここにいますことを信じ
謹み敬いて礼拝し、主の無上なる
御霊威に対し、尽くすべき尊敬を献げ
奉ります
御恵みを感謝し
わが身を捧げん
イエス我らを許し給え・・

憤怒の雷光のように腐るべきものが燃やされ、二人の連祷に煙りに燃ゆる薄い軀が霧のやうに風にまざってきえてゆく・・



コイメテリオン(眠れる地)
死者は本当は死んでおらず、単に蘇りを待って眠っているだけなのだ
それを示さんが為にキリスト教徒だけが使う言葉である

ヘルモゲネスは謳う
祈りと執り成しとともに
かの女は賞賛すべき師に願ひ
聖歌と褒め言葉と共に
かの女は不死なるものと云ふ
昼もなく夜もなくひねもす祈りて
神への畏れを抱き
はじめより
天使のおとづれと物語に
大いなるありし女
ナナス祝福されたる者
その「眠れる地」なり














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