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生活 これからがある身体
辛いと感じることは、愛しい日々があったから。
哀れむべきは死者ではない、生きてる者。
私はもうお別れをしていく覚悟はあるのだ、
ここにあるのはただの寂しさ。
誰かを支えなければと強く感じた当時とは変わり皆んな頼もしくなったなぁ。そう感じた時、やっと素直に悲しむ事ができた。やっと私は弱くなることができた。
だから今日は弱いままでいようと思う。
祖母が他界し、喪服を着るのは今年は2回目になる。
沢山の月日を送っていく中で、大切な人が亡くなることに少し慣れている自分がいることに気付き、何かぽっかりとしたものを感じた。冷たくなっていく手や硬直していくなかでもまだ心臓の辺りは暖かいと知っている事。霊安室に行ってしまえば、均一な体温になり、暖かさはもう何処にもなくなること。焼き場にいってしまえば、肌に触れる事も、後を追いかけることも、もう出来なくなる。逃げる先もないから逃げることができない。そして、いつもこのタイミングで「あ、もう駄目だ、おわった。」と感じること。
そうして硬直した自分の身体がなによりも死体に近かった。
死んだのは私ではなくとも、その時に私のカケラも一緒に死に連れて行っているのだろう。それは唯一亡くなってもなお渡すことのできる餞のように思える。
今更私が何をしても、報われたり報われなかったりしないとしても。
これから先「まだここにいて」と願っても走っても、走った先に辿り着くあなたは硬直していること。これから、貴女に届くことも変化することもない世界で私は息をしていくこと。
此処には、”ただ時間がある” ということ。
これからがある身体があれから12年生きながらえました。いつ死んでもいいと思いながら、死ねない理由があってまだここにいる。
まだこの世界を見届けたい気持ちや生存本能もあったと思う。あとは責任感だな。
今死ねないなら、取り敢えずでも生活を支えるしかない。
誰かが亡くなっても自らの生活は続くし、身体は生きることをやめない。身近な人が亡くなった時こそ、生きている人は自らの生活を強く支えなければならなくなるし、世界は変わっても世間も生活も何も変わらず、取り敢えずでも生活を送って身体を支えるしかない。
見送る側にいるのはそういうことだ。
哀れむべきは死者ではない、生きてる者。
自分自身もまた、生あるものなのだ。
もう1人の自分を憐れみ、愛してあげてね。
今はスパルタしなくていいよ。
手を抜いていいところとダメなところを見極めて。
適度にガス抜きして、強張った身体をほどいて。
此処には、”ただ時間がある” ということ。
私には、”これから”があるということ。
叔父さんは今支えてくれる人はいるだろうか。
いなければ出来る限りで支えたいと思うけれど、
どうやって手を貸せばよいだろうか。
ただ、寄り添うことができれば。
少しの暖かさを手渡すことが出来たなら。
たった、それだけが出来たのなら。
それでいいのかも知れない。
辛いと感じることは、愛おしい日々があったから。
センチメンタル的な寂しさも、あったからこそ寂しいのであって、代替え品で埋めるなんてすんな。
代わりなんてなくていい。
過去の宝物として、大切に抱えていよう。
それがあるから、私不幸だっただなんて思わない。
私はもうお別れをしていく覚悟はあるのだ、
ここにあるのは、ただの、
ただの寂しさ。
嘆きが私を襲っても。それでも。
さぁ、ご飯食べよう。
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