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人間関係はグラデーションだ。(追記あり)

私は、自分の輪郭がぼやけて見えることが不安で、白黒したかったのかもしれない。
でも見えなくて。自分がどんな人が全然分らなくて不安だった。

また、世の中の、「好きな人と付き合いたい」という感情が、考えれば考えるほど私は受け入れがたくて、異性に対して抱いた好きという感情を、”恋人”という関係に落とし込むのが上手くできなかった。

みんな何を恋人に求めているんだろう。
人間としてすき、恋人として好き、友達として好きって違うよね。それってなんだろう。

でも今日、人間関係はグラデーションじゃない?という話を聞いて、羨ましいと思うと同時に、すとんと心に落ち着いた。

付き合う事は変わりゆく人間関係の中の通過点で、別れることも通過点で、そこに意味を与えただけ。
制約を、約束を、とりつけて、わかりやすく形にすることで、安心したいんだ。

いつか友人が言っていた、「恋人っていう形が欲しいだけじゃん」ってそういうことだったんだ。

人間として好きと恋愛として好きの違いがわからなくて、異性を好きだなって思うと悩んでいた。


私の中で、人として好きって異性として好きよりなんか崇高な関係だと思っていて、逆にいえば、異性関係に落とし込むことは人としての深い関わりというより欲求の割合いが高いような気がして、恋愛に落とし込むのが怖かった。
それはきっと、恋愛感情は他の人間関係よりかなり不安定なものだと思ってるからだ。


でも今日お話してくれた方は、「人間として深みがあってからのただの通過点だ」からって言っていて、羨ましかった。付き合うことも別れも、通過点ならいいな。別れもそこにあった意味が不要なのかもしれないから、取り除いただけならいいな。

その方の、お話を聞いてる方が多かったんだけど、好きな気持ちがポンポンと浮かんできて気持ちのいい1日だった。


今日の好きは、中華街の小籠包とかビールとか、川沿いのお店やパーキングの下で駄弁ってるワンカンしてる人たちの夜だったり、散歩が好きだって話とか、ノーパンしゃぶしゃぶについてだった。寒い日にはお風呂が楽しみになる事だったり、温泉の背中だけの湯船だったり。

そうやって、そうやって生きていきたいな。


(追記)

だけれど、まだまだ本当は分からなくて。
それは、グラデーションの中で異性を恋愛として好きになったことがないから。
だから、これはまだ理想論なんだ。


私は”異性として好きな人”を思うと、苦しい感情の割合が強いんだ。四六時中その人のことが頭が支配されるの。余白がなくなるみたいな。それって私にとってはかなり辛いことで。

好き<苦しいになる。
苦しいだけじゃなくて「好きだ」って感情もあって、それでも余白のない苦しい中考えてもよく分からなくて、その感情たちを手放してきた。

今でもわからない。
だから私が考えなきゃいけないことはここなのだろうな。

友達も似たような感情を持っているという話を聞いたことあるんだけど、それでも付き合っていけるのはなんでだろう。聞いてみよ。

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