関係性でしか繋がれない僕たちは、役割も関係性も超えた先で初めて出会いなおす。


3日ぶりに外にでると人間がいるという事実に感動してしまう。世界に自分だけじゃないということや色んな人がただそこにいるのは純粋に心地が良かった。

社会では、支援されて初めて”ただそこにいる”ことが許される。ただありのまま佇むだけのことが、存在価値が決められている社会生活では支援なしでは相当に難しい事かもしれないが、生きていく上では大切な問題だと思う。

関係性がなかった僕達は、何かしらの関係性を持ち名前を呼ばれることによって初めて顔をもつことが出来る。ただ、そんな仰々しい拘束は窮屈だ。友達とか、恋人とか、家族とかそういう関係性を超えた所に、ただそこにいる”あなた”として現れてくる。
そういう場所で人と人は初めて出逢いなおせるのだと思う。

これは余談だけれど、それは深さを求めてる事とイコールではないし、私はあまり深い付き合いを求めていない。
言うなれば、街中でベンチに座ってるその人に「今日の調子はどう?」と話した時にただその人として応えてくれたら他人との関わりとしてはそれで満足だし、相手に対して自分を知って欲しい!という気持ちも少なく、質問されなければ自分の事を話すのは少し苦手。嫌なわけではないから、知りたいと想ってくれるのであれば応えようとは思うし、興味を持ってくれるのは嬉しい。
コミュニケーションの為に、無理やり自分を全面にだそうと頑張った時期もあるけれど、私はエンタメではないし…という感覚がどこか引っかかって心地悪かった。ただ開かれたまま立っていればそれでよかったのにね。
“ただそこにいる”って難しいな。

私が他人に”深さ”を求める時というのは、「人間を外側から解剖していく様な好奇心」としての興味からでしかなく、それはとてもドライなことだと思う。暴力的なことだとも思う。
(そう分かってはいるが、好奇心が止まらなく暴走してしまうことが多いのでそろそろやめたい)

「関係性を求めないまま、側にいて欲しい」と思うことに関して、「私の為に、ただそこにいて欲しい。近くで見ていたい。」と言語化する以外に今の私には術がなく、何の為に?と聞かれてしまうとわからない。
もしかしたら、好奇心だけかも知れないし、貴方みたいな人もいるということが、私にとっての希望だったり、救いだったりするのかもしれない。または、もう自分の一部にしてしまったのかもしれない。

でも、私にとっての救いになって欲しいのでも希望になって欲しいのでもなく、寂しいから側にいて欲しいのでもない。伝えたいことは、「ただありのまま佇んでいるところ、他者としてただ生きてるところを、そばでみさせて欲しい」というだけ。求めてるのはそれだけ。

分かってもらうためはなく、自らの言語で自らの何かをただ発する時、彼が彼自身の感性を信じきってそこにいることが伝わる。その方がよっぽどその人らしいと思う。共有言語としての、同じ認知をして共有できる形に変換しなくていいから、ただそこにいてよ。名付けられた名前でもなく、誰かとの関係性の中の貴方でもなく、君にとっての君でもなく、あなたがただ現象として現れている様な自然な状態。

決して、完全に分かることはない。
そんな風に思ったらそれは、思い上がりだと気付かないといけない。永遠に訪れないとしても、分かり合おうとするその距離が、この世界で1番近い距離なのだろうな。

役割も欲望も好奇心も差し置いて、ただありのままをありのままに眼差すことができたら、どれだけ良いだろう。言葉がないほうが、どう見つめようか、考える気がするね。どう見つめようか?というより、どう見つめているのか自分が浮き彫りになる。言葉は発する側の自意識もあるから、自分だけのどう見つめてるかの純度が分かりづらくなる。相手が発してるものを自分がどう受け取るかは自分にかかっている。探る。わからなさ。それでもわかりたいと、感覚が研ぎ澄まされていく。

“ただ佇んでいるところ”をみていたい。


追記
どうやら、今回のnoteは感覚としての言葉を使いすぎてるようで、時間が経ったらちゃんと考えたら少し思っていることとズレてる言葉を見つけそうな気がしてます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?