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ふらふらとしている。

できない事をやろうとすることや、それらをやらねばと思うことは、時々理想が高いという表現になって私に返ってくる。

ああ、そうか。と、
その度に自分の無力さとして痛みを伴う事もあるけれど、認めることができたときには諦め(明らむ)となり、ふっと気が緩む感触がする。

愛されたり愛するっていうのを想像する時に思うのは、生死の実権を掴み合う中に潜り込んでいくこと。 
愛することも愛されることも、その範囲の中に自ら入っていかなければならないと強く感じるし、またそういう怖さを越えなきゃいけない話で、怖くてずっと逃げてきたし、そうやってずっと自分のことを脅してきていた。

またに楽観的なテンションでうっかり一山越えた時には、勢いもつけずにフィールドに入ることもあった。それもやっぱりどこかで躓いたし、長くは続かなかったけれど。

いつの時にか、いつ死んでもいいよと言ってくれたあの子。私は、それぞれがまぁいつか死ぬまで一緒にいよう、楽しもう、という言葉が欲しかったんだろう。そういう態度に救われた。

人を愛することも人に愛されることも、十字架の様に自分に気負わせて、できないのにやらなければならないと思い込んでいた。

できないことは、できない。
やろうとすることをやめなくてもいいけれど、憧れではいても羨望なだけで理想なだけで、やりたいことでなかったのだろう。望みではなかったのだろう。

今はそれでいいんじゃないかと思う。
生死の実権を掴み合う中に潜り込んでいく様な距離で、人を愛することは出来ずとも、誰かを愛していくことはできるのだから。

それらを「冷たい」と言われることがあったけれど、それはもう仕方のないことで応えてくれというのはやっぱり今の私には無理なのだろう。

まぁ、いつかは来るかもしれないし来ないかもしれないし、もうちょっとフラフラしようかと思う。

追記.2024.5.
相手に伝えるとするなら、近しい人ほど警戒心が強くなるからいまはこの距離感が一番心地よいかなぁ〜ってこと。大切にはしたいけど、応えられないかも。心の予防線が発動してしまうのよねって。

あとは、気を許したり、また許されると、適当にな るのがデフォルトでワガママなお姫様気質な面があ るのは改善しよう。心配りが少なくなり甘えすぎで寄り掛かりすぎ。

嫌な事があったとしても自分の受け取った 感じ方だけじゃなくて、相手の伝えたかったことは それなのか?を疑う。伺う。

思い込まないし、こう感じてるということを伝えて いく。そして対話のフィールドにはいっていく。

対話ができればまぁそれでいいんだよな。

別に遊びたいわけじゃないが、色んな人と一対一の対話ができるのは楽しいよねって話。

どんな人生との距離感も、
一定ラインは互いを尊重したい。 



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