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コロナの問題、イタリアで感じた事と自分自身の学び

いかがお過ごしですか。

イタリアに留学しているアジア人という身で、このコロナウイルスの問題を通して感じたこと。そして、自分の学び(戒め?)を書いていきたいと思います。コロナの問題は今も続いているのですが、便宜上、「〜を経験して」や「学んだ」など過去形で書いてしまうこと、お許しください。暗い話ではないので、気軽に読んでもらえれば、なにより!

1.街を歩いて

イタリアにいる日本人の友人たちから、コロナウイルスに関してアジア人だから、街で何か言われたという話をよく聞く。バスに自分たち(アジア人)が乗ったら、みんな降りていくとか。筆者の留学しているフィレンツェは観光客が多いからか、何かを言われることは少ない。さらに、特定の国の人を出入り禁止にした店やタクシーもあったそうだ。

例えば、街でウイルスなど不快な言葉をかけられたとする(実際友人の多くが経験した)。そこで、「私は(中国人じゃなくて)日本人ですよ」と返したとする。不快な言葉を投げつけられて、「中国人じゃないよ」と言ったら、謝ってくる人もいるらしい(友達の体験談)。私には疑問が残る。じゃあ中国人にだったら不快な言葉を言っていいのか。謝らなくていいのか、と考えてしまう。

しかし、実際には筆者も「(感染者の多い国ではないですよという意味合いで)日本人ですよ」とこたえてしまうかもしれない。もしこれから、中国人という理由で何か不愉快なことを言われたら、「中国の方が聞いたら傷つくと思いますよ」と言おうと思う。

入店禁止にしたお店や東洋人を出席停止にした音楽学校について。この感染症というケースでは、お店自体や学校自体の自衛という側面がある。線引きは難しい。だが、本来の自衛ではなく、国籍や人種、民族を理由に何かネガティブなことをいうのは甚だおかしい。

2.街の反面教師がかけていた色眼鏡

筆者は、昨年10人近く中国人の友達ができた。彼らと接して、今までの中国のイメージが変わった。今まで分かったつもりになっていた。何かについて、国とか民族とかでひとまとまりに括って断言なんて出来ない。今まで世界の人を国という単位で無意識に「分けて」、自分の中で「分かった」つもりになっていた。しかし、それは一見、学んでいるようにみえて、見えるはずのものを遠ざけていた。

フラットな視点なら見えるはずの綺麗な模様。国単位の色眼鏡では、見えない綺麗な模様。人は分類して理解していくから、バイヤス無しなんて不可能だと思うけど、自分の中の間違った先入観が取れた時は、綺麗な模様が見えて、世界が広がったと感じた。大げさか。

人類学の教授が「学ぶこととは、自分の今いる場所を知ること。だから本来、学ぶこととは温かいもの。」と言っていた。筆者は、はじめあまり意味がわからなかった(今もそんなわかんないけど笑)。教授は続けて、「自分の今いる場所、現在地を知るには、周りとの関わりが必要不可欠だ。そう考えると自らを取り巻く世界を知ること、まだ知らない事柄を知ることは、自分自身を知ることにつながっている。」と言っていた。あぁなるほど。そういう定義もあるのか。「自分の知らない世界に入ることで、自分自身を知る。自分がなんなのか、相対的に理解する。」勇気がいることだと思う。知らないものを拒絶せずに、フラットな状態で受け入れることを試みたい。

最後まで読んでくれて、ありがとうございます。Grazie!! 


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