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臨界値の前にて留まること

発達障害の問題で、これまであまり問題にされずに来たけれども、今注目されている、少し考えるべき事に「知覚過敏」~例えば、音や光を強く感じてしまうことを指すものとする~が言われております。
本人にとって、不快であるとするならそれは欠点と言えるかも知れませんが
実の処、自然の光や自然の奏でる音が不快であると彼らが言っている訳ではなさそうです。

あくまでも平均的な人が不快に感じない水準で街や都市が作られた結果としての環境にどうも適応できないという話なだけです。
その意味で、彼らの能力は、小さな自然の音や光(風の音、波の音、虫の音、月の光、小さな輝きの星)に反応すべく高機能な性能を発揮しているとも言え、一般人は、彼らからすればいわば無能です。

知識や情報の記憶力や考える能力等が過剰である場合に、天才と呼ばれはしても、障害と呼ばれる事は少ないでしょうから、基準はそれが社会に有用か否かという問題だろうという事が推測されます。

ならば、将来の大きな環境変化に備えて、そのようなDNAの発露は、必然的に生物としての人類に望まれている適応(準備)とも言える訳ですから、人類はコストを払ってそのような性質の維持を図る必要があろうかと私は個人的に思います。少なくともこれまで人類が将来に備え、DNAに何億年も保存して来た能力であろうことが推測されるからです。

その意味で、ある臨界値を超えて戻れなくなる水準に至らず
過剰が臨界値ぎりぎりに留まっている状態をあらゆる多方面で目指す事が
低成長が見込まれる社会~これから少子高齢化の帰結が次々と問題化するであろう日本~にとっては、現実的に目指すべき姿であろうかと思う訳です。

同じような店舗ではなく、臨界値いっぱいに個性化した商品やサービスを
ネットの力で日本中、世界中で提供する。
要するに100人のうち2人だけに響く商品が100社ある市場の方が、100人のうち100人に響く商品を1社が作りそれを大量生産して他を排除してしまう市場より楽しくないですか?

これが日本の生きる道


少しトラブルがあって、旧アカウント消して新たに再出発。以前のアカウントフォローされていた方🙇。今度はゆっくりやります。