【今週のリフレクション】教養の書(戸田山和久氏)

今週は、戸田山和久さん著「教養の書」を振り返ります。ざっくり3点で要約すると・・

1.教養とは「社会の担い手であることを自覚し、公共圏における議論を通じて、未来へ向けて社会を改善し存続させようとする存在」であるために必要な素養・能力(市民的器量)であり、また、己に「規矩」を課すことによってそうした素養・能力を持つ人格へと自己形成するための過程。

2.豊かな知識は人生を楽しく過ごすのに重要。即時的な体験は、検索では代替できない。古典が文化の共通基盤となり、多様性や豊かさが生まれる。教養の知識プラスアルファとは、自分を大きな価値の尺度に照らして相対化できることと、知識が構造化され時間的にも空間的にも座標がわかること。また、社会の流れでのポジションを知り、社会の担い手になることを目指すプロセスでもある。

3.教養を身につけるには、不幸の知となるプチ恐怖に打ち勝つ勇気が必要。自分の問題を人に考えてもらうのはイヤだと思う感覚。種族のイドラ(知覚の歪み)洞窟のイドラ(個別スタイルによる歪み)、市場のイドラ(言葉による歪み)、劇場のイドラ(学問による歪み)が邪魔をする。人工物である、装置/言語/方法論/訓練/制度を使って対抗。人類は書き言葉を持ったことで長期記憶を増強し、批判的思考が可能になり、概念をリレーできるようになった。学ぶ意義は、知的遺産の継承の担い手になること。

仕事柄、有難いこと講演を依頼されるような方々とお会いする機会に恵まれています。そういった方々から共通して感じるオーラがあります。懐の深さというか、人間としての熟成というか、上っ面ではない深淵な感じです。ぼんやりと、それが“教養”というものなのかな?と思っていました。

最初は博識=知識の引き出しが多いこと、だと思っていました。歴史に詳しかったり、思想に通じていたり、科学に明るかったり。ただ、ビジネススクールでたくさんの博識で頭脳明晰な人と知り合いましたが、先に感じたオーラとは少し違うように感じました。彼らも私に比べれば遥かに知識もあり優秀なのですが・・

そして、この本を読んだ時に「社会の担い手」という言葉でハッとしました。つまり、自分だけでわかる真実は少ないと知り、過去から脈々と連なる探究のリレーの一部を担う自覚を持つことが、私が“教養”だと感じていたことの正体だと気付きました。だから自然と謙虚になるし、向上心があるのだとスッと腹落ちしました。

若い頃は短時間でしか物事を見られず、最近になって少しは長い時間軸で物事を見られるようになったかな?と思っていましたが、まだまだだったと改めて身が引き締まる思いでした。そう気付くと、これまで受け継がれてきた先人からの贈与に少しだけ気付くことができました。私の場合は人材育成の様々なフレームや理論、手法やノウハウです。

そうすると、次のステップとして、これからの世代に何かを残す覚悟をしていく必要があると感じています。先人から受け取り、自分なりにほんの少しだけ前に進めたHR領域を社会の担い手としてどうやって引き継いでいくか?そんなことを考えた1週間でした。もちろん、並行して自分自身でまだまだ前に進めるつもりですが。

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