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第18話・1939年 『日体、各地で講習会』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

オリンピック・ハンドボールの東京開催で競技スポーツとしての飛躍、学校体育の充実をと燃えていた若きハンドボール人たちは新たな目標を掲げて歩み出す。
 
日本ハンドボール協会誕生にあたっての短期事業計画では、この年は「満州」との交流、女子と中学の全日本選手権開催のほか室内選手権の実施もあげられていた。室内(7人制)の普及をどこまで進めようとしたのか、具体案を示す資料は残っていない。オリンピックの“断念”で机上のプランで終わってしまったとしても不思議ではない。
 
特筆されるのは日体(日本体育会体操学校、現・日本体育大学)による各地講習会だ。
 
前年夏休みと冬休みに日本ハンドボール協会とタイアップの形(と言うより日体の協力がなければ開けなかった)で行なわれ好評を得た。1939年は日体単独のイベントになるが後年、2年間にわたり国内ほぼ全域を回ったこの講習会がなければ、ハンドボールの芽はつまれかねなかったと言われる。素晴らしい行動だった。
 
一方、運営力の乏しさが問われたのは1937、38年と続いた全日本選手権の休会だ。明治神宮体育大会が東京大学学生リーグの選抜選手による紅白戦(公開競技)だけに留められたのが響き、陸上競技界のバックアップが外れたあとのカバーの難しさ、厳しさ、すべての面での人材養成が大きな課題となる。
 
東京大学学生リーグの秋季から法政大学が加盟した。

第19回は8月11日公開です。

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