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世界のコートから ザンビア編 Vol.3

『スポーツイベント・ハンドボール』2019年11月号~20年1月号に掲載した「世界のコートから ザンビア編」を全文公開。ザンビアとつながるきっかけについてがつづられた第1回現地での実際の指導などを紹介した第2回に続き、最後となる第3回では、ザンビア共和国で男子のジュニア代表を監督として率いて国際大会を戦った経験について語ってもらいました。

あなたの活動について教えてください!
海外でハンドボールの普及に携わっているみなさん。その活動について紹介してみませんか?
興味がある方はhandball@sportsevent.jpあてに、題名を「世界のコートから」係としてご連絡ください。

筆者:芳村優太/26才(記事掲載当時)。大学卒業後に海外留学し、その後、ザンビア男子ジュニア代表監督を務めた。現在はJCO専任コーチジュニアアスリート担当として活躍中。

前回は私が2018年にザンビア共和国(以下、ザンビア)男子ジュニア代表の監督に就任した経緯や、IHFトロフィー・アフリカゾーン6(国際ハンドボール連盟がハンドボール途上国を支援する大会)に向けてどのような準備をしてきたのかをお話ししました。

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芳村さんが指導したザンビア男子ジュニアチーム

いよいよ大会へ、というところですが、開幕前から予想外のことが立て続けに起きます。

通常、ザンビアはアフリカ内のゾーン6というエリアに属しますが、同時期に開催予定だったとなりのエリア(ゾーン7)の参加国が少なかったことで、ゾーン7との共同開催で大会を行なうことになりました。日本で言えば、関東大会と近畿大会をいっしょに開催するようなイメージです。これが大会直前に発表されました。アフリカではこのようなことが起きるのはけっして珍しくないようです。

また、司令塔を担う予定であったネイサンが過去にジンバブエのコーチ登録をしたことがあるとわかり、試合に参加できなくなりました。彼にどんなことがあったのか詳しくは知りませんが、出場できないことは間違いありません。

さらに、レギュラーGKも参加できなくなり、当初のゲームプランを大幅に変更せざるを得ないことになってしまいました。

このようなトラブルに見舞われながらも、初戦でスワジランド(現・エスワティニ)に41-5の快勝を収め、その後もマラウイに40-17、南アフリカに35-16で勝利し、3連勝でグループBを1位で突破しました。

準決勝の相手はグループA2位のジンバブエ。序盤こそバタつくものの、最終的には32-16の大差で勝利し、マダガスカルが待つ決勝に進みました。

しかし、この試合でエースのムサがヒザを負傷。トレーナーではない私でも、ムサがじん帯を損傷しているであろうとわかりました。

アフリカではすぐに適切な対処をしてもらえるわけではなく、アイシングを軽くして終了、といった程度。安くはない診察費も必要なため、彼は今もなお、このヒザの診察は受けていないでしょう。

グループリーグでも右バックの選手がケガをし、結果的にネイサンを含めたバックプレーヤートリオを欠いた状況で決勝を戦わなければなりませんでした。

ですが、マダガスカル戦ではムサをスタートからコートに送り出しました。彼がどう考えてもプレーできるコンディションではないにもかかわらず、試合に出たいと強く訴えてきたためです。

試合前に1時間かけてテーピングを買いに行き、ヒザをきつく固定するなど、可能な限りプレーできる環境を用意しました。

しかし、実際に試合が始まると、思うように踏ん張れず、早々にムサはベンチに戻ってきます。もう彼は試合には出さないと心に決めましたが、ムサは痛みに苦しみながらも、何度もプレーをしたいと訴えてきました。

みなさんは、このような状況でどのように対応しますか。選手が出たいのであれば痛みに耐えながらも出場させた方がいいと考えますか。それとも選手の将来を考え、ベンチに座らせておいた方がいいと考えますか。

私は彼を試合に出場させました。彼の思いに応えようと二度、三度とコートへ送り出し、彼もできる限りのプレーをしようと試みるも、やはり彼のヒザはいうことを聞いてはくれません。最後はムサの方から声を掛けてくることがなくなり、ベンチに座りながら頭を抱え、なにかをずっと考えているようでした。

選手としての将来をつぶしてしまうという側面から考えれば、この時の判断は間違いなくコーチ失格でしょう。しかし、足を引きずりながらプレーする中で、彼の人生においてなにか大事なことがこの試合で見つけられるのではないかと、ふと思ったのです。

試合については、21-34と大差で負けてしまい、初優勝という夢を実現することはできませんでした。相手の圧倒的なシュート力を前に、チームは意気消沈。立ち上がりから大崩れしてしまい、立て直すことができずに終えてしまいました。

私は選手たちに「今日という日を忘れるな。課題はたくさんあるが、今日はザンビアにとって次のステップに進むための始まりの日だ」と伝えました。この大会をとおして、彼らザンビア人が本当にハンドボールに対してより真摯に向き合うきっかけになればと願ってのことです。

予想外のことはまだ終わりません。閉会式後、ザンビアチームで集まって記念写真を撮っている時のことでした。ザンビア協会の会長が選手たちになにか話をしていました。

そこで伝えられたことは、決勝で敗れはしたが、世界ジュニア選手権アフリカ大陸予選の出場権は獲得できたということでした。その理由は、ゾーン6とゾーン7の共同開催であることから、代表枠が2つあるためでした。それを聞いて、さっきまで暗かった選手たちは喜びを爆発させていました。

ですが、2019年11月号で田代征児さんがお話ししていたように、財政難により、大陸予選への参加は泣く泣く断念、ということになりました。

私自身は大会後に帰国し、現在はJOC(日本オリンピック委員会)専任コーチジュニアアスリート担当として、日本球界の発展に尽力しています。

余談ですが、IHFトロフィー期間中、全チームの監督・コーチは夜8時ごろから10時ごろまで、IHF主催のコーチングコースに参加しました。3日連続で行なわれ、最終日に修了証を授与されました。

このコーチングコースの目的は、アフリカでのハンドボール発展のために、世界トップではどのようなハンドボールが行なわれているかを伝達することです。

私が驚いたことは、この場でザンビアチームがいい例として何度も取り上げられたことでした。私がザンビアの選手たちに教えていたことと、IHFがアフリカ諸国に伝えたいことが一致していたということは、少なくとも私の指導の方向性は間違っていないということが証明されたのかなと感じています。

参加したコーチたちからは、「今までこんなハンドボールは見たことがない」と言われるほど、彼らにとっては新鮮だったようです。ザンビアのみならず、アフリカの国々の発展に貢献できたと思うと、少しばかり誇らしいです。

試合が終わった翌々日、ザンビアを出発する日、ムサと会いました。彼は自ら進んで坊主にしていました。日本もアフリカも負けたら坊主はいっしょなのかと内心笑いながらも、彼は決勝をとおしてなにか感じてくれたのではないか、と思い少しうれしくなりました。

また、大会に参加できなかったネイサンは、今後も試合に出場できないなら、とコーチの道へ進む決意を伝えてくれました。彼は今、ザンビアの子どもたちを集めて、ハンドボールスクールを開催しています。

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指導者に転身したネイサン(左)

世界各国の現状を知ってこそ日本球界の文化ができていく

私はこの大会をとおして、ここには書き切れないほど多くのことを学びました。その中でも1つ、みなさんにお伝えしたいことがあります。

それは、ハンドボールを発展させたいなら、上ばかり見てはいけない。つまり、ヨーロッパや韓国ばかり追いかけてはいけないということです。

もちろん、ヨーロッパや韓国の情報を集め、追いつけ追い越せの精神で強化・発掘・育成をしていくことは大切です。かつての私もヨーロッパを知ることが最も必要だと感じ渡仏しました。

しかし、世界に約200の国と地域がある中で、日本がどこに位置しているかを正確に把握することはもっと大切であり、ヨーロッパ諸国・日本・韓国・アフリカなど、それぞれの国や地域の長所・短所を理解しなければ、日本に合ったハンドボール文化を作り上げていくことはできないと今は感じています。

ハンドボール後進国であるアメリカも、すでに2028年のロサンゼルス・オリンピックに向けて、強化を進めています。

ヨーロッパへハンドボール留学をする人が増えていますが、もしかしたらそのような国に監督・コーチとして挑戦する、ハンドボールを学びに行く方が、指導者としての成長やハンドボールの発展につながるのかもしれません。

そうでなければ、日本代表のダグル・シグルドソン監督(男子)やウルリク・キルケリー監督(女子)はわざわざヨーロッパから日本には来ないでしょう。

最後になりましたが、このザンビア代表への支援は、クラウドファンディングを中心に多くの方のご好意によって成立しました。この場をお借りして、みなさまに御礼申しあげます。ありがとうございました。


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