第35話・1956年 『女子、11人制撤廃の決断』
スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
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日本協会は10月の全国理事会でついに女子の11人制を撤廃し「1957年度から女子と中学(男女)の競技を7人制に一本化する」と決めた。
全日本総合選手権で4大会連続、高校生主体のチームが優勝、「総合」への改組(第32話)は一定の効果をあげたと思われたが、女子チーム数、愛好者人口の減少を止めるには至らなかった。
1937年、岡山県の高等女学校(高女)によって本格化した女子競技。戦中も全国の高女を中心とした活動で日本のハンドボールは守られた。広いフィールドに刻まれた彼女たちの情熱、忘れてはならない。
世界チャンピオン・西ドイツ男子代表が雄姿を現わしたのは9月14日。日本ハンドボール界が初めて迎える外国代表チームは伝統の国、栄光の国、憧れの国からの使者であった。
国際ハンドボール連盟(IHF)ハンス・バウマン会長(スイス)が同行していた。アジアでの振興に日本へ寄せる期待は大きく、1964年の東京オリンピック構想にハンドボールを盛り込むのは世界ハンドボール界の宿願である。
ハンドボール関係者の関心事は、IHFが将来像を11人制堅持に据えるか、室内(7人制)に舵を切ろうとするのかの1点にあった。
バウマンの胸中は複雑だったようだ。室内重点策こそ大発展の道とのニュアンスを濃くにじませたかと思えば、ハンドボールの魅力はフィールド(11人制)をおいてほかにないと語る。マスコミとの会見では「東京オリンピックはフィールドが望ましい」と話した。
東京大会の予算面で、ハンドボールが室内を主張すれば新たに体育館が必要となり、難題となる懸念があった。バウマン会長=IHFがフィールドを望むのは“好ましい姿勢”と捉えられた。
割り引いて聞く必要もあった。バウマンの出身国・スイスは11人制の王国だ。ベルリン・オリンピック銅メダル、戦後3回(1955年まで)の世界男子11人制選手権は2位1回、3位2回。アルプスの山々に囲まれた緑豊かなグラウンドで展開されるハンドボールの爽快感は、「ドイツ」に次ぐ人気と実力を誇る。
西ドイツは強かった。日本ハンドボール史上初の公式国際戦、日本代表(当時は「全日本」と呼ばれた)とは2試合が組まれ、第1戦(9月28日・大阪球場)は16-27、第2戦(30日・東京、後楽園競輪場)は12-28。スピード、パワー、個々のテクニックで日本は圧倒された。このほか全日本学生戦(横浜)など6都市で6試合が行なわれ、西ドイツが実力を発揮、快勝を続けた。
内外を驚かせたのは、8戦のべ16万人を集めた観客数だ。大阪1万2000人、東京2万人のほか、地方会場は名古屋(対全東海)では3万7000人の大観衆が詰めかけた(いずれも数字は主管協会発表)。盛況に酔う中で女子の歴史を大きく変える決断となった。
第36回は8月28日公開です。
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