第26話・1947年 『物資不足の中での活動』
スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」
日本全体が耐乏生活を強いられる中、スポーツ(ハンドボール)大会を開くのは容易ではなかった。食糧事情、交通事情の険しさに加えて用具・用品も不足し、大日本体育会(現・日本スポーツ協会)に設けられた「用具委員会」は各スポーツ団体にとって“最重要”の会議となった。同委員会は地方体育・スポーツ界からの要望も集められ、各日本協会への配当は極めて少数だ。
7月、東京で中学男子(女子は高等女子学校)の東日本選手権の第1回大会が行なわれ、2回目となる西日本に“呼応”した。東・西関係者はどちらからともなく勝者が対決する大会をいずれ開こうと呼びかけあった。その日は意外にもすぐ訪れる。翌年早々、東京・明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)の第7回東西対抗(男子)と同日に組み込むと決まったのだ。
7月には、京都で高校(旧制)による全国ハンドボール大会も行なわれた。旧制高校のスポーツは1920年代から各スポーツで見られ、1942年には総合競技大会も開かれているが、ハンドボールは無縁のまま過ぎてきた。それだけに京都の大会は関心を呼んだが、学制改革もあって翌年で閉会となってしまう。
2回目となる10月の国体(石川・金沢市)の学生女子対抗(参加2チームによる決勝)、埼玉女子師範-石川学生選抜は壮烈な試合となり、延長でも決着がつかず、特例の13mスローによるプレーオフの末、埼玉が3-2で勝った。
新年(1948年)1月19日には、西宮(兵庫)での東西対抗(第6回)で初めて女子が行なわれたが、そのあと2年間チーム編成が整わず休会となり、女子一般女子層の競技者確保に課題が忍び寄っている不安を感じさせた。
第27回は8月19日公開です。
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