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「似合う」ってうれしい

メルカリで買った服が届いた。真っ青のハイネックのニット。編み目が大きめでかわいい。早速着てみたところ、想像以上にしっくりときた。見つけたときにひとめぼれしたそれが自分に似合った。ただそれだけのことが無性にうれしい。

服も恋愛も同じく、残念ながら「自分が好きでも相手と合わない」ことがある。それを知ってしまったときは、おそろしくかなしい気持ちになる。「こんなにも好きなのにな〜。なんでだろう」と。だから、「似合うかな?」と不安を押さえ込みながら一歩を踏み出し「似合った!」ときのうれしさったらすごいのだ。


同じように、だれかの「似合う」もうれしい。
自分が悩みに悩んで選んだプレゼントが相手に似合ったとき。一緒に買い物に行って、「どう? これ似合うかな?」と聞かれた服がぴったりだったとき。心の中で思わずガッツポーズをしてしまう。「相手がよりすてきに見える」こと、それで「相手がうれしそうにしている」ことが自分のよろこびになる。


昨日も、そういう瞬間に立ち会った。
友達が誘ってくれて、人生初のフリーマーケット参加した。自分には似合わなくなった服、もう使わなくなったものをたくさん持って行って、レジャーシートの上に広げた。

はじめこそなんとも思わずに、お客さんから「ほしい」と言われたものは値段を伝え、値引き交渉にもある程度は応じて、フラットな気持ちで(とはいえ、モノが売れたよろこびはあった)お金とモノを交換した。でも、ある女性が近づいてきて、私の黄色のニットとグレーのスウェット生地のプルオーバーを手に取ったとき、「この人に買ってほしい!」と思った。着たときに似合う姿が想像できたからだ。

それまでお金の情報しか伝えてこなかった私が、その人にははじめて、商品の情報を伝えた。「そのニット、大きめにつくってるからゆったり目に着れると思います」とか、「そっちのスウェットも、めっちゃ着まわしやすいですよ」とか。その文句が効いたのかどうかはわからなかったけれど、その人はどちらもお買い上げしてくれた。胸の奥がじ〜んとした。私にはもう似合わなくなってしまったあの服たち。捨てるほども着古していないのに、もう役目を終えるしかなかったかもしれない服たち。それらがあの女性の手に渡って、あの人をよりすてきに見せてくれ、そしてあの人がよろこんでくれるのだ、と思ったら、なんだかうれしかった。

そのあとも、友人の出品していたダウンがぴたりとくる方がいた。その人がそれを羽織ったとき、思わず横から「お似合いです」と言ってしまった。その方は恥ずかしそうに「いやいや」なんて顔の前で手を横に振っていたけれど、やっぱりすてきだった。女性が去ったあと、友達が「似合う人が買ってくれてよかった」と笑っていた。「似合う人が着てくれるってうれしいよね」と私もしみじみ返した。


そう考えると、niko and...というアパレルブランドの「であうにあう」ってコピーはいいなぁ。なんて、書きながら思ったのでした。出会って似合ってくれることの小さな奇跡や、似合うものに出会うよろこび。ぎゅっと詰まってる気がする。


最後まで読んでくれて、ありがとうございます!