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Hole chambers 高石晃 展@吉祥寺art center ongoing をみて


慌ただしくトークの現場へ駆け込んだ吉祥寺。17:30

展示はそこまでゆっくりは見れず、ただなんとも言えない引力を感じさせる絵画がそこにあった。

トークは約90分 桝田倫広(東京国立近代美術館研究員)氏を司会に話は進む

そこで語られていたことはほぼ頭の中でも反芻できない。
私が音楽というジャンル外からの参入という立場でそれは仕方ないが、
シンパシーを感じるのはそれが日本語でありながらほぼ美術制作経験値のない人間には
理解不能であるだろう事だった。

でもそれがよかった。

あまりにも他者であるのだ。

ただただ私には作者は生きている。
そしてワタクシというそれすら乗り越えて制作を行おうとしている
その言葉が、言葉にならず聞こえてくるのである

作家は物理的に穴を掘る
キャンバスに穴を作る

同時にそれを聞くものは見るものは”?”という大きな穴に落ちていく。
もしくはそれが巨大な水脈となることを知らず呆れて仕事に戻る。

常識的な振る舞いや空気・言葉のキャッチボールの作法
それはいつしか誰もが曲なりに “できなくても”こういうものだと思い込むものである。

しかしアートの(ここ展示では)それは意味をなさない。

何を感じ考え行動に移すか?作品に昇華するかそれだけがこの会話の主導権であった。
まるでミミズが自身の排泄物で土を豊かにしまた微生物を食べそれを繰り返すように

話の中ではゲルハルトリヒターのような著名な作家の名前も出てきた。
それらを参照に筆のタッチの組み方などお話が進んだ。

しかし違うここでは作家が主人である。
そしてそれは多くの名も無いたちの表徴である。

ある意味特異な世界の掴み方がそこに転がっている。
そしてそれはある種、資本主義の下で効率化され言語化された(流行の横文字)を否定せずに
人を新しい世界の側面に立たせる可能性を持っている。

強度というものがある。

それは人が自然に感じる対象に対しての強さである。
それは多くに思い込みのようなもの。ロマン。
ある種うざい感覚。

経済的数値化 兌換され得ない何かの強さ

ただそれを人は魂と呼ぶのかもしれない。

余談だが作家の胸にはノイズミュージシャン・作家の山塚eye氏のレーベルshockcityロゴが揺れていた。


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