産んでしまえばどうにかなる

読む人によっては非人道的に捉えられかねないことを書いています。特に宗教に関連するものでもなんでもない私の独自の思想ですが、過激だと思われても仕方の無い、生活する中では話しづらいあまり人には受け入れてもらえない私の良くない部分の話をしています。特にお家にでも、お腹の中にでもお子さんのいらっしゃる方は読まないでください。もし傷つけてしまったら責任が取れません。








就活中、友達と将来について話したことがある。結婚願望とかペットのこととか賃貸か持ち家かとか、車のこととか。とにかく仕事以外の未来のことを話す、いわば就活からの束の間の現実逃避だ。

そんな中で友達がふと、「子どもは3人欲しいな〜」みたいなことを言い出した。そんなに具体的に考えて言ってるわけじゃないんだろうけど、私は咄嗟に「この国の経済状況じゃ……きつくね?」と零してしまった。しかし友達は「いやあ、産んじゃえばなんとかなるよ〜」と。能天気。
その場の軽い雑談だから問題は無いし、その子は決して責任感の無い子ではない。でもこのノリで実際に子どもを産むのって絶対よくないなと私は常々考える。苦労するのは産んだ側だけでは無いからだ。

小倉の路上の花壇に割れたシャンパンボトル落ちてた
何があったんだ



「産んでしまえばどうにかなる」とかよく聞くけど大嘘だと思う。
どうにかなるって、「火事場の馬鹿力的な力で親が立派に子を育てる」よりも「親の不充分さを子どもが自らを犠牲にしてカバーする」という意味の方がメインなんじゃないか実際。生活のためにバイトを詰め込む高校生でもかなりの問題だが、一部では中学生が法的にも精神的にもよくない方法でとんでもない額を稼いでいるらしい。いい大人が未成年を保護するどころか買うなど世も末だ。他にも、親の度を越した精神的な未熟さによって虐待を受けたり、障害が遺伝したりすることもある種の犠牲だ。
どうにもなってない。どうかしている。

ある「産んでしまえば」論者は私に「産んでみたら分かるよ〜」と語るが、産んでからじゃ遅いし学習如きのために新しい命を生み出すのは無責任だ。そんなことより、「上の子は可愛くない」と遠ざけないで1番目のお子さんをちゃんと見てあげてください。2番目のお子さんの保護観察は取れましたか。塞ぎ込んでいた3番目のお子さんは少しでも元気になりましたか。元旦那さんからの養育費は貰えてますか。部外者ながら本気で心配です。

先日ブログで晒したノートの一部に絵が描いてあった。
小学生の私三保松原描くの上手いな



そもそも妊娠出産のリスクについての知識が浸透してなさすぎる。知ったら皆産まなくなるからかな。私も最近まで知らなくて驚いたし、己の無知を恥じた。悪阻で死ぬこともあるとかマミーブレインとか、グロテスクだから書かないけど他にも沢山。産んだ女性からも、「こんなに辛いなんて知らなかった」という意見がよく見られる。

私がもし男性だったら絶対好きな女性にこんな危険なことはさせたくない。
今21歳の餓鬼の戯言で全国のお父さんを敵に回したが、時代が違えば事情も色々違うので一概には言えないかもしれない。「子どもを産んだ」というステータスで女性が社会的地位を得られる、というメリットのある時代だったと思えば……いや、でもこんなに身体を犠牲にしないと格下扱いってどんな事情だ。やっぱり敵で大丈夫です。
旦那や親や義理の親の圧力で産むパターンなど言語道断、自分の身体のことなのになぜ当然のように他人が決めようと圧力をかけてくる。それに屈する女性の自己肯定感たるや。未婚で男が逃げて中絶できなかったパターンはもっと言語道断、裁いてくれ法律。子どももそんな経緯で産まれても嬉しくなかろう。

「じゃあどんな動機なら産んでいいんだ」と言われそうだが、「そもそも産むべきじゃない」と答えたら非人道的だろうか。でも無責任に子どもを産むことの方が非人道的じゃない?まず本当の意味で責任感のある出産って何。ペットでさえ「最後まで飼えないのならお迎えしてはいけません」って言われてるのに。

その極端すぎる結論には、何らかの私の個人的な思いが関係しているのかもしれない。そんな思いじゃ想像できないから、ここまでの文章には「産みたい女性」のパターンが全く登場していないのかもしれない。

私は生まれてきたくなかったのだろうか。

話が重いので入江(7歳)のピアノの発表会置いときます
幼い写真って可愛いのがデフォだけど自分は微妙だな
幼い頃の写真を「可愛いでしょ」とばかりに
インスタに上げるタイプの女は苦手です



正直、私は小学校で習った時から出産という概念が恐い。資料映像を見た教室で、皆のように「命は尊い」「生命の神秘」と思うことができなかった。「お母さんは私のせいでこんな苦しい思いをしたのか」と思った。今でも思う。こういうドキュメンタリーや創作物や宗教が寄ってたかって美化するけど、命懸けの出産って本当に美化されていい行為なんだろうか。「美化するしかなかった」んじゃなくて?そこまでして殖えたい?
この歳になって妊娠出産のリスクや中絶の仕方(日本のやり方はまだ古くて無駄に危険な方法らしい)を具体的に知ってしまいその恐怖は倍増した。今や妊婦さんを見ただけで数週間後にその女性に訪れる産みの苦しみを思って自分の身体の神経までもが痛み息が止まりそうになってしまうこともある。

それでも周囲は生まれてくることを当たり前に善としている人ばっかりで、それを実感する度に皆と違う自分を人間として欠陥があるように感じてしまう。欠陥を知られたくないから普段はむやみやたらに言わないし、周囲を否定しないし、いつか友達に子どもが産まれれば私だって「おめでとう」と言ってお祝いを渡すだろう。どんなに極端な思想を身につけても、産まれてきたからにはせめて幸せになってほしいとかそんな安直な考えで子どもたちを大事にするべく今日も懸命に児童福祉に携わる。

痛いなと思いながらつい買ってしまったTシャツ
作った人たぶん私より思想強い
背中には「安楽死」「反出生」って書いてあります



いつか、万が一誰かの親になれるくらい自分に自信がついたら私は養子縁組を考えると思う。もし私を親として選んでくれる子がいたら。
自ら子どもを産む気が無いのは痛みへの恐怖とかではなく、私なんかのもとに私なんかに似て……いや、まず「生まれてくること」を可哀想だと思ってしまっているからだと思う。

今の私にはまだ、「生まれてきてよかった」と思える経験が足りていないのかもしれない。

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