そういうものの扱い

白昼堂々語弊を恐れずに言うと、性的な概念を取り扱う創作物が好きだ。
所謂性的コンテンツのマニアだとか映画やドラマ等のそういうシーンが好きだとかそういうことではない。そういう概念が盛り込まれることによってリアリティが増して物語が生々しく、残酷なものがより残酷になるのが好きなのだ。人間のある種の逃れようのないような現実(なんとなく「本能」という言葉が嫌いで使いたくない)と人間を人間たらしめる理性とか人間関係とか他の守りたい物とかの入り交じる世界観の中に作者の容赦の無さが垣間見える。気がする。実際に人が人に触れるシーン自体は別に無くても良い。エモい(笑)シーンとかも要らない。

アニメ・漫画ならクズの本懐(原作者は元々R18寄り漫画家だが)、ドラマ化されたものなら白夜行や私を離さないでがその観点から見て好きだったりする。同じ行為でも愛情があったり無かったり一方通行だったり、何かを手に入れる手段だったり何かを見ないようにする蓋だったり、その前後で距離感が変わったりそれを知った周囲との関係性も動いたり。上手く言えないが、他の何かで代替するよりしっくりきている気がする。
舞台なら赤坂さんや溝越さんの作品が自分の中でそれにあたる。特に溝越さんの作品で言うと露骨で容赦の無いセリフ、しかしそれを言う時に女性が恥ずかしがる素振りややらされてる感等で性的コンテンツとして消費されるのではなくむしろ観客を突き刺すべく振り翳す武器になるような(武器にすることも一種の消費かもしれないが)。かっこいい。大好きである。

引き合いに出すには低次元すぎるが、私がサークルの公演に向けて脚本を書いた際妥協した項目の1つなのでその自由度の高さにちょっとした羨ましさもある。できる限り誇張の少ないリアルに近い人間模様というかどうしても生々しい物語が書きたくて、そのためにはあった方がいい設定だと思っていたもののそれを演じるのがいつも仲良くしている同期や後輩だと思うと気が引けた。可愛い後輩にそんな役はさせられない。過保護。
あと普通にふしだらな先輩だと思われたら心外なので遠慮して諦めてしまった。せっかくそれ以外の資料集めとか結構頑張ったのに。やっぱりちゃんと容赦無く作った方が良かったのかな。

ただ、そういう役割を一切持たず別の目的で都合良く消費されるためだけに扱われる性的な概念(主に女性の身体)は正直見るに耐えない。物語のリアリティを増すどころか、それを真に受ける人に間違った性知識や都合の良い女性像を植え付けがちな気がしてならない。女性として生きてきた体感、他の概念と比べて有害な例があまりにも多すぎる(決して男性の性被害を軽視するものではありません)。創作物だけが原因だとも勿論思わないが、そういう多種多様な植え付けによってできたのが今私が街を歩くだけで「身体を売りませんか?」という旨で知らない人に普通に、なんならタメ口で話しかけられる社会ならもう女性として生きる希望は持てない。

そういう不条理の中で生きる苦しさを時に痛快に、時に深刻に可視化してくださっているから私は溝越さん脚本の作品が好きなのだ。おそらく今後も追わせて頂く。
気持ち悪いオタク語りでブログを締めるな。

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