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Totemo512の映画レビュー考察① 映画『恋は光』、2回目鑑賞後の完全ネタバレ感想 (完全ネタバレですので絶対に映画を見てから読んで下さい、未見の方は先入観で鑑賞の妨げになります!!)

(完全ネタバレですので絶対に映画を見てから読んで下さい、未見の方は先入観で鑑賞の妨げになります!!)

※この文章は独自研究ではないか‥との反論があるかもしれません‥しかしその時はそれぞれの感想を優先させた方が良いと思われます。
なのでこの感想は1つの仮説として読んで下さってかまいませんし途中で投げ出しても良いと思われます。
何より重要なのは、この映画が正当にきちんと評価されることです。

-以下、完全ネタバレ-

























映画『恋は光』は、2回目に見ると小さなストーリーだなとも感じました。
しかしこの事は、この映画自体が小さなストーリの作品だということではありません。
1回目の初見と違って結末が分かっていたので、私は北代(西野七瀬さん)の心情を追いかけて最初から見たからそのような感想になったのです。

初見でこの映画を見た時は、大きくて広い普遍的な「恋とは何か?」という哲学的対話の話から、次第に最後は小さな個人的な幼馴染の恋の話に着地する、深く感動する傑作という感想でした。

しかし2回目の鑑賞で、結末を分かった上で北代の心情を冒頭から追ってみると、北代は一貫して主人公・西条(神尾楓珠さん)への想いを持っていたことが分かります。

1回目の初見の後に私は知ったのですが、この映画の小林啓一監督は、映画解説者の中井圭さんとのTwitterスペースで、
「実は(北代が)泣いたり眠れなかった日の翌日は眼鏡を掛けているんですよ」(映画ナタリー22/6/24)
と語っています。

なので、北代の眼鏡姿は「泣いたり眠れなかった日の翌日」だということです。

そこで2回目鑑賞時に北代の眼鏡姿に注目して見ていると、映画の序盤も序盤、北代が西条に頼まれてどこか浮世離れした文学少女の東雲(平祐奈さん)を紹介している大学の談話室?のシーンで、既に北代が眼鏡を掛けている場面(映画ナタリー22/6/13画像)が出て来ます。
(西条が東雲に交換日記を渡したシ-ン。アユ釣りの直前のシーン)

つまり、北代は西条に東雲を紹介して欲しいと言われた時からショックで目を腫らしていたということになります。

私は1回目の鑑賞では全く気がつかなかったのですが、こんな早々に?と思われました。
つまり、北代の西条への好きなんだけれども諦めているという心情は、最初から最後までずっと階調が飛ぶことなく一貫していたことが2回目を見た時に分かりました。

この映画『恋は光』は、大きくて広い普遍的な「恋とは何か?」という哲学的対話の物語だけでなく、並行して、各登場人物それぞれだけに焦点を当てても全く自然で違和感のない一貫している小さな物語も、進行していたということになると思われます。
この、大きな物語と、個々の破綻ない小さな物語の重層性も、映画『恋は光』を素晴らしい作品にしている要因だと思われました。

この映画の小林啓一監督は、(主人公・西条を演じた神尾楓珠さんも好きだというサッカーに強引に例えると)元バルセロナで現マンチェスターシティのポジショナルプレーを作り出したペップ・グアルディオラ監督のような、美しい構築をする人なんだなとは思われました。

例えば、映画冒頭の登場人物の紹介カットの秀逸さもその一つだと思われます。
・西条と北代が、冒頭の大学前ですれ違い会話を交わす場面、西条が眼鏡を上げると北代が「キリッ!」とアテレコ、それにすかさず西条が「ムッ」っと返す関係性
・東雲が、冒頭で恋の研究のための小説感想ノートを教室に忘れてしまったので走って大学の教室に戻り、教室の前で”まだ授業をやってるのかしら‥”と、教室のドアに耳を当てまるで頬ずりしているかのように顔を動かす美しさ
・宿木(馬場ふみかさん)が、映画のファーストカットで、恋人を奪った相手の女性から※カフェオレを頭から並々とぶっかけられ、「暑かったから丁度良かったわ」と強がる場面

(※修正:映画を見ていた時は宿木が映画冒頭で掛けられたのはカフェオレだと思っていたのですが、実際は桃ジュースだったそうです(岡山名産だから?映画のラストシーンで宿木が飲んでいるのも同じ桃ジュースだそうです)。訂正しておきます‥)

これらの、それぞれの登場人物の魅力を、冒頭で端的に一筆書きのように1カットで紹介し描き切ってしまう手さばきは、小林監督の能力の高さを表しているように感じました。

宿木の配置のさせ方も秀逸だったと思われます。

宿木はこれまたサッカーに例えると、なぜそんなところまで走り込むの?なぜそんなところにボールを出すの?と映画の中で一人強引振りを発揮しています。
しかし、そこから美しい展開が連続し、味方のゴールが生まれるのです。

その自然な配置のさせ方も小林監督の構築力の素晴らしさを示しているように感じました。

宿木は、東雲と西条の交換日記に強引に入り込み、東雲と北代との食事会の場面で、「私この人好きだわ~と思ったら…それが恋でしょ」と、恋の定義を考えている東雲と西条との交換日記の内容に対し疑問を言います。
その宿木の発言がなければ、東雲は「私が恋だと思えばそれが恋なのですね」との認識に至らず、後の天気雨のシーンで東雲が西条に対して恋の光を発することもなかったと思われます。

宿木は強引に西条に会いに行き、その後、西条をバーに連れ出します。
宿木はその時、西条を略奪したいと思った時にしか恋の光を発しません。
西条は、宿木の相手を略奪したいと思った時にしか光らない恋の光を見なければ、恋の定義についての混乱を起こすこともなかったと思われます。

また、宿木がバーで西条に強引なキスをしなければ、西条がバーから飛び出して商店街の画廊に飾られていた大洲央(伊東蒼さん)の絵と出会うこともなかったと思われます。
そして西条にとっては、宿木の略奪の恋の光によって生み出された恋の定義の混乱の中で、大洲央の絵と出会うことが重要でした。

その後、宿木が画廊の店員を惑わして連絡先をゲットしていなければ、西条は絵の作者の大洲央と連絡を取って会うこともなかったと思われます。
そして宿木が画廊店員の連絡先をゲットしていなければ、西条が大洲央と会う時に付き添っていた北代が、大洲央によって恋の光で光っていることが明かされることもなかったですし、その流れから北代が西条に告白することもなかったと思われます。

宿木が東雲の家で東雲と北代とのパジャマパーティーをしている時、東雲に西条への告白を強く勧めていたのも宿木です。
この宿木の後押しがなければ、東雲が西条に倉敷のデートにて告白することもなかったと思われます。

西条は最後に東雲の告白への返答に長い返事を1冊のノートに書きます。
その決断をする時に西条は、宿木がバーで言っていた、机の上に両手を置いてまぶたを閉じてそこに映った相手が誰なのかという方法を使っています。

宿木は、このようにこの映画を展開させる重要な役割として登場しています。
しかし、宿木は都合良くこの映画のために配置されていたとの作為性は、これだけの数ありながらも観客からはほぼ全く分からなかったと思われます。
なぜなら宿木は、あくまで心から自然に最初から最後まで振舞っていただけと観客からは受け取られていたからです。

この全体としては重要な役割であるのに、個人としては全く違和感のない一貫した自然な振る舞いとして両立させるのは、並大抵の力量ではとても出来ない小林監督(脚本)による構築だなと思われました。

一見すると宿木は勝手で強引で、人物像としては西条、北代、東雲の3人よりは落ちる描写になっていたかもしれません。
しかし宿木は、略奪したいという感情がどこからやって来るかは、自身ではそれほど深くは考えていない整理されていない、私達の多くとその点では同じ普通の人だったと思われます。
だからこそ逆に小林監督は宿木に対して深い敬意があったように思われました。
それはこの映画が、宿木のカットで始まり、宿木の「私もちゃんとした恋しよ」とのカットで終わるところにも表れていると感じました。


東雲の描き方も素晴らしかったと思われます。

東雲は「恋とは何か?」の命題を解くために、あらゆる小説を読んで整理分析していました。
ただその東雲の整理分析は普通の人には理解されないものです。
なぜなら、宿木が「私この人好きだわ~と思ったら…それが恋でしょ」と言うように、普通の人はわざわざ恋そのものについて整理分析する必要がないからです。
東雲の整理分析は、だからこそ周りの人とは別の次元で遂行することが可能でした。
誰もそこに理解して立ち入ることは出来なかったためです。

しかし西条だけは違っていました。
西条は、東雲の「恋とは何か?」を整理するために書いていたノートに、校正という形でしたが修正を加えます。
そのことは東雲に小さな驚きをもたらしたと思われます。
なぜなら、これまでの東雲にとって、過去含めて自身の問題を1人で整理して解決して行くことは当たり前の話だったからです。

東雲が、過去含めて自身の問題を1人で整理して解決して来た理由は後に明らかにされます。

東雲は天気雨のシーンで西条に対して恋の光を放ちます。
東雲はその天気雨の日、北代と一緒になった教室で、北代が西条のことを好きなのかどうかを聞きます。
おそらく、西条の幼馴染で、東雲と食事会もした北代に対する、西条への恋の光を持った東雲による誠実な振る舞いだったのだろうと思われます。
ここで東雲は、北代が西条を好きなこと、しかし北代が複雑なんだけれど1度西条に振られていることを知ります。
(記憶があいまいなので後のシーンと混ざっていたらすみません‥)
その直後、東雲と北代はお金のない北代のために東雲の家で家呑みをすることになり、バスに乗って大学から遠方の東雲の家に行きます。
東雲の家に東雲と北代が着いた時、東雲が大きな家に1人で住んでいる事を聞いた上で、家の仏壇に東雲の両親らしき写真と祖父母らしき写真が置かれているのを見て、東雲が肉親を亡くして今は一人でいることを、北代と共に観客は理解します。
しかし東雲は、まるで昨日何を食べたかを話すぐらいの日常的な自然な話し方で、あっさりと普通に北代に対して自分は両親を事故で亡くしたこと、その後に祖父母に育てられたが今は1人であること、を説明します。
(近くに親戚がいるので寂しくないことも加えて‥)

つまり東雲にとって両親や祖父母を亡くしたことは、とっくに整理された過去の問題として済んでいる話なのです。

そしてこの時の東雲の家の縁側での北代と東雲のパジャマパーティーで、西条は両親に捨てられたこと、西条が東京の出版社で大学の学費を稼いでいたことなどを、北代は東雲に話します。

西条もまた、北代の話し方からしても、東雲と同様に、両親に捨てられた話はとっくに整理された過去の問題として伝わり、西条は東京の出版社で大学の学費を稼ぐなどもう既に未来に向かっていることが分かります。
なので西条が両親に捨てられて苦労したとの話も、西条自身は大学生活でも表に出す必要も既になく、そんなことで感情が乱されたりもしていません。

西条と東雲は似ています。
それは、若くして自身の両親と別れなければならなかったというところ以上に、その過去の大きな傷を整理して乗り越えてきたところが、です。

東雲は、両親や祖父母を失った感情の本当の意味での共感を周りから得られることはなかったと思われます。
そしてだからこそ東雲は、整理することでその気持ちを封印し、1人で乗り越えることが必要で当然だと思ってこれまで来たと思われるのです。

しかし今回、その東雲の整理の文章に西条による修正が加わりました。
さらに西条との「恋とは何か?」を議論する交換日記によって、西条との共同作業の整理が行われて行くことになったのです。

東雲の、過去の気持ちを整理し封印して来た孤独な世界に、西条がやって来ます。
東雲は、宿木との会話から、「私が恋だと思えば、それが恋なのですね」との認識にも至り、西条に対して恋の光を発するようになります。

西条は物事を整理して乗り越えていく姿勢で、東雲と余りにも似ていました。
東雲は、西条が両親と早くに別れなければならなかったという自分と共通点があることも知ります。

東雲は、自身が整理して封印してきた過去の本当の気持ちを解いても、西条になら伝わると思ったはずです。
東雲が伝えたいと思えば、それが伝わるはずの相手が、東雲に初めて現れた瞬間です。

ただ映画ではこの東雲の恋は実りませんでした。
東雲は、西条との倉敷でのデートの時に、西条に対して恋の告白をします。
しかし西条は、東雲からの倉敷での告白を、1日かけてノート1冊分整理にかかってしまった文章で、断りの返事を入れます。
それは西条なりの、東雲の整理封印していた心の扉を開いてしまったことに対しての、責任の取り方だったのかもしれません。

東雲はこの西条からの断りのノートを読み終わり、「これも恋なのですね‥」と、顔を上げ上を向き、一筋の涙を流します。
その涙がどこまでも美しいのは、西条との恋がかなわなかったことに加えて、両親や祖父母を失った、整理封印していた過去の感情の共感を、西条をもってしても伝えることがかなわなかったという、深い反復の別れの涙でもあったからだと思われます。

私は、この映画の初見では北代良かったなと思っていたのですが、2回目の鑑賞後は、東雲の未来に幸あれと思わずにはいられませんでした。


ところで私が知る限り他の人もあまり触れていない、この映画を見終わっても唯一残こる謎が一つあったように思われます。
それは、<北代がなぜ西条を好きだったのか?>という理由です。

北代を演じた西野七瀬さんは、公開直前のイベントで、北代が西条のどういうところが好きかは言っていない‥一緒にいる居心地の良さ、相性の良さが北代が西条を好きになった理由では‥との趣旨の話をされています。
「神尾楓珠、西野七瀬、平祐奈、馬場ふみかが登壇!映画『恋は光』公開直前!大ヒット祈願イベント」(シネマトゥデイ22/6/13))
しかし、<北代がなぜ西条を好きだったのか?>の説明としては曖昧です。

小林監督は俳優陣に「「説明しすぎかもしれない」と思うほどに細かく演出していた」(映画ナタリー22/6/24)
とのことなので、それに反してこの映画の根幹中の根幹ともいえる<北代がなぜ西条を好きだったのか?>の理由が曖昧なままなのは、奇異な感じもします。
しかし他については俳優陣に細かく演出していた小林監督が、<北代がなぜ西条を好きだったのか?>の理由を説明していなかったのは、何か大きな考えがあったから、あるいは、説明するまでも聞くまでもないなと小林監督も西野七瀬さんも互いに感じていたから、と思われました。

ちなみに西条が北代の恋の光は見えない理由は、映画の中では、西条は両親に捨てられて育っているので、西条は、後の学習で得られる母性への理解が薄く、母性に似た恋の光の方は見えないとの説明でした。
つまり、恋は、①自分にないものなどを相手に求める本能の部分と、②後の学習で得られる母性のような部分の、2つが混合したもので、両親に捨てられて母性を知らぬまま育った西条は、前者の①本能の恋の光は見えるが、後者の②学習・母性の恋の光は見えない、という説明です。
なので、北代が西条に向けた恋の光は②母性の恋の光だから、西条からは見えない、という説明なのです。

では、<北代がなぜ西条を好きだったのか?>の謎の答えとして、北代は、西条に対して母性を感じていたから、という説明が正しくなるのでしょうか?
しかしどうもこの説明は、北代の本質を見誤っているように私には感じられてしまいます。
なぜならこの説明だと、北代は、両親に捨てられた西条に同情し、西条を母性で守りたいと思っていた、それが北代が西条を好きになった理由、になってしまうからです。
この北代が、見方によっては上からの同情である母性で動いていたという説明は、直感的に間違っているように思えるのです。

なぜなら、西条は同情を向けられるような可哀そうな存在では断じてないからです。
そしてそのことは北代が一番分かっている話です。

西条は、過去の両親に捨てられた感情を、上でも触れたように東雲と同様に、整理し封印してきたと思われます。
しかし北代の方は、そんな整理し乗り越えなければならない重大な事柄はなかったように伝わります。

北代は、西条や東雲と違って、どちらかというと「私この人好きだわ~と思ったら…それが恋でしょ」と考えている宿木に近い普通の人だと思われます。
(私も含めて)多くの普通の人は、西条や東雲のように過去をしっかりと整理して乗り越えなければ生き続けることは出来ない、訳ではありません。
大半の私達、普通の人は、友人と語ったり、酒を飲んだり、迷惑の掛けない範囲で感情をあらわにしたり、趣味で憂さ晴らしするなどして、過去の傷はそこそこで忘れたりすれば次の日からまた生き延びることが出来るのです。

また逆に、多大な様々な関係性の中で整理する時間も取れず、曖昧にやり過ごす外ない場面も多いのです。

小林監督が西野七瀬さんに詳細にこの映画の根幹ともいえる<北代がなぜ西条を好きだったのか?>を説明しなかったのも、北代を演じる時の根幹の部分に、A.整理されていない曖昧な部分を持っていた方が、普通の人に近い北代を逆に演じやすい、あるいは、B.小林監督も西野七瀬さんも、北代の根幹部分での整理されない曖昧さは、私達の多くに共通している普通さなので、自明で説明する必要もなかった、のどちらかではと思われました。
つまり、過去の傷を整理しなくても曖昧にやり過ごせる(あるいはやり過ごす外なかった)普通の私達の感覚に近い北代の根幹は、A.小林監督にとっても曖昧にして説明しない方が、西野七瀬さんにとっても曖昧にしてされない方が、あるいはB.阿吽の呼吸で既につかめていたので、自然にリアルに演じられたのが理由のように思えるのです。

しかしだからといって、私達普通の人である多くも、全く過去の傷を負っていない訳ではありません。
私達の多くは、過去の傷は整理されず曖昧に忘れたりされながらも、少しずつでも溜まっていくことになります。
そして出来れば、大切な人にだけでも、その過去の心の傷を(語らずとも)共感していて欲しいと思っているはずです。

西条は、東京の出版社で大学の学費を稼いだとの北代の証言からも、独力で過去を整理し克服してきた人と伝わります。
その西条の強靭な精神と生きる力は、北代にとって心の基盤となり防波堤になっていたはずです。
(ただ、北代はもちろん西条に依存しているわけではありません。
 北代は日々の自身の生活をきちんと精神的に自立して過ごしていますし、西条に対しても対等の関係が出来ています。
 この心の基盤や防波堤は、どうしようもなくなった時の最後に心の傷が守られる場所としての比喩の話なのです。)

私は、<北代がなぜ西条を好きだったのか?>の答えは、西条が北代の心を意識せずに守っていたからだ、と思われています。
北代にとって西条がいることで、北代の日々の忘れていた忘れざるを得なかった心の傷も、最後は守られ癒されることになっていたと思われるのです。

つまり北代は、西条の存在によってそのままの存在が肯定されていたのです。

私達の多くが北代に肩入れし、映画のラストの場面で感銘を受けたのは、整理せずに曖昧にやり過ごして来た、また様々な多大な関係性の中で曖昧にやり過ごさざるを得なかった、北代と同じ普通の私達の存在に、光が当たった瞬間だったからと思われます。


最後に、西条にとって北代とは、普通の世界と自身とを結びつける、常にそばにいた人物でした。
西条は、自身の過去を整理して独力で乗り越えることをして来たいわば特異な人物です。
西条は、自身の整理された世界の中で十分に生き延びることが出来ていたと思われます。

しかし、そんな西条に普通の世界とのつながりをもたらしたのが北代の存在だったと思われます。
常に(時に離れていても)西条のそばにいた北代が、整理されてはいても孤独だった西条の世界に、どれほど多くの外の世界のきらめく光を差し込ませたかは、想像に難くないと思われます。

西条にとって北代は外の世界とをつなぐ光そのものだったのです。

それは、子が誕生した時に、母によって取り上げられた時に包まれる、外の世界と自身とを肯定的につなぐ、希望の光そのものだったのだと思われるのです。


映画『恋は光』は、私が考えるに、美しい構築構成の後に、最後にこのようなそれぞれの到達を遂げた作品だと思われています。
なかなかこの水準の映画にお目にかかれることはめったにないと思われています。

もちろん、こんな完璧なストーリーはあり得ないよ、もしくは、心が整理されないまま互いの感情がぶつかることこそ映画やドラマだろう‥との批判にもこの映画は開かれているとは思われます。

しかし私は、この映画『恋は光』は、どこまでも考え尽くされた構成があり、破綻なく自然な一貫した各登場人物の振る舞い描写があり、最後それぞれの深さに到達する映画であって、やはり傑作だったなと、2回目の鑑賞後にも思われています。

もちろん私のように小難しく考えなくても、軽やかに楽しめる映画にも仕上がっていると思われます。
深さと軽やかさとの両立もまた、なかなか出来ないことだと思われています。

深く考え尽くされた、しかし軽やかで素敵な、素晴らしい映画をありがとうございました。

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