考古学者の不可解な大王陵比定
文化人類学(考古学)専攻の福岡大学教授で『古代騎馬文化受容過程の研究』を書かれた桃崎祐輔氏は同書の中で津堂城山古墳=応神陵、仲津山古墳=仁徳陵、上石津ミサンザイ古墳=履中陵、誉田御廟山古墳=反正陵、大仙古墳=允恭陵、土師二サンザイ古墳=安康陵と比定されています。騎馬文化受容過程の研究は質・量ともに優れた内容だと評価できるのですが、このオオキミ陵の比定には少し驚きました。
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上記の比定の中で上石津ミサンザイ古墳を履中の陵、大仙古墳を倭王済こと允恭の陵とする見解に異を唱えたいと思います。その理由を述べる前に桃崎氏が採用されている塚口義信氏の王朝交替説を簡単に紹介しておきます。
塚口説 *4世紀後半の倭王権には主流派(仲哀・香坂王・忍熊王に相当)と反主流派(神功・応神に相当)の二大派閥があり、主流派は百済の辰新王派と親しい関係にあり、朝鮮半島出兵には消極派だが、「熊襲」征討には積極的であったのに対し、反主流派は百済の阿花王派と親しい関係にあり、朝鮮半島出兵に積極的で、かつ日向の西都原の政治集団とも親しい関係にあった。そして辰斯王権を打倒し阿花王即位に加担した反主流派による内乱が4世紀末に起こり、主流派を打倒し、その結果、倭王権の主導勢力が佐紀政権から極めて軍事色の強い河内政権に替わった。その政変の時期については、阿花王即位の直後であった可能性が大きい。それは倭が百済・新羅へ侵攻してこれらを「臣民とした」と広開土王碑が表現している出来事が起こった391年頃であろう。この結論は、古墳のあり方から4世紀末・ 5世紀初頭前後の時期に日本の各地で首長系列の変動が起こったとする考古学の研究成果とも一致する。
大仙古墳を倭王済こと允恭の陵であると比定された根拠は前後のオオキミと古市・百舌鳥の巨大古墳全部を時代的に並べた結果のようですが、主要な根拠は出土した須恵器です。ON46号須恵器(440-460年)が出土したので大仙古墳の築造を5世紀半ばにしているのですが、だからと言って直ちに仁徳陵ではないと結論づけるのは早計だと思います。
仁徳は仁徳王権の始祖王であり、その子の履中時には権力は低下し、履中の弟である反正は王妃をもらういとまもなく消えていったオオキミです。仁徳が超オオキミであり、反正は恐らく攻め滅ぼされたオオキミという視点を忘れてはならないと思います。ここのあたりは私見ですが、少なくとも履中、反正はそれぞれ6年程度の治世であった点は誰もが認めるところでしょう。
ON46号須恵器(440-460年)が出土したので大仙古墳の築造期を5世紀半ばとするわけですが、あまりにも機械的な判定だと思います。仁徳が超オオキミであり、治世期間は413年から430年であったという基本認識に基づいて考える必要があるでしょう。仁徳崩御の430年ごろに完成した大仙古墳で、子の反正が440年ごろに最新の須恵器を用いて祭祀をしたことが考えられます。根拠となる須恵器ON46号は440年ごろから460年ごろまでの製作年の幅がありますが、最初期の440年ごろに祭祀に用いたと考えれば、大仙古墳から須恵器ON16号などが検出されたとしても、別に問題になることはなく、仁徳陵でないという証拠にはならないと思います。
桃崎氏が上石津ミサンザイ古墳を履中の陵としているのは大仙古墳を倭王済こと允恭の陵墓としてしまったからでしょう。私は大仙古墳は間違いなく仁徳の陵であると考えていますので、黒斑埴輪をもつ上石津ミサンザイ古墳が仁徳の子の履中陵になるわけはないと思っています。桃崎祐輔氏の比定は大型古墳の築造順序を決めて、それをオオキミの治世順序に機械的に対応させただけのもので不当だと思います。治世5,6年の反正の陵墓が、どうして倭国第二の超大型古墳である誉田御廟山古墳になるのか、優れた考古学者の見解だとは思えません。
このように考古学者の先生が理解し難い結論を出されるのも文献史学が4世紀末から5世紀中葉までの明確な正しい史観を提出できていないからだと思います。発売中の拙著『真実を求めて 卑弥呼・邪馬台国と初期ヤマト王権』は4世紀末から5世紀中葉までの歴史を考える上で参考になるのではないかと自負しております。ご一読の上、ご批判を賜りたいと思います。
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