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22. ムスヒを誤解しているのに、どうして神学がなりたつのか? 本居神学にはエビデンスも何もないのではないのか。

 アマテラスが皇室の祖先神として祭られる前は国家神としてタカミムスヒが祭られていた。この結論は今後、変わることはないと考えられる。

 二つ重要なことを指摘しておきたい。

 一つはアマテラスを祭り始めた時期(持統期)に、それまでの大王時代とは違う神を新しく国家神としたということである。何かが起こったということである。何が起こったのであろうか。この時代に初めてアマテラスを祭る伊勢神宮ができたことも含めて考える必要があろう。

 もう一つはタカミムスヒはあくまで国家神として国家の権力者が祭った神であるということである。本居宣長はムスヒについて民族神ととらえ、ムスヒについて本当の意味が分かっていないにも関わらず、独自の神学を作り出した。

 しかし、タカミムスヒは民族が祭っていた神ではない。仮に民族神、民俗神であればオオナムチ、大国主などのようにあちらこちらで祭られた形跡が残っているはずである。タカミムスヒにはその形跡がなく、むしろ長い間忘れ去られていた神である。国家権力者が祭った神であり、民族として祭っていた神ではない。

 また私の認識が間違っており、タカミムスヒが民族神、民俗神として祭られていた形跡が存在していたとしても、その民族神がどうして国家神になっていったのかという経緯は問題である。その経緯が説明できないかぎり、エビデンスなしとみなしていいのではないかと思う。

 本居宣長のムスヒの定義には何のエビデンスもない。つまり、なるほどそうだ、合理的に考えればそうなるなといった客観性がない。その客観性がないムスヒという独自の概念を全く主観的にのみ大げさに展開している。そのエビデンスのない神学理論が多くの神社の神主さんたちに与えている影響を考えるとそら恐ろしいのである。

 では私のムスヒ論のスケッチを書いておきたい。ムスヒを考える場合、5世紀の我が国の歴史を考えなければならない。ところが5世紀については歴史学者は曖昧模糊としたことしか書いていない。だいたいが日本書紀にこう書いていますというだけである。5世紀について解明が進んでいないため、いまだに仁徳陵、応神陵が、なぜあれほど大きいかを説明できていない。ただ次第に大きくなりました。そして次第に小さくなりましたレベルの記述が多い。

 5世紀の歴史が解明されていないのに、古くから民衆の間にムスヒが祭られていたとエビデンスのないことを一方的に語られても困るのである。語る限りはエビデンスを出さなければだめであろう。

 実は私は自分なりに5世紀の歴史を解明した(古代史の仮説そらみちゅやまとKindle電子出版)。ぜひ読んでいただきたい。

 その私の史観から言えば、ムスヒは民族、民衆の神ではなく、国家権力者がもってきた神である。

 5世紀初頭、日本に高句麗王統が入ってくるが、その王統が持ってきたのが高句麗の神モスへである。へは太陽の意味であり、漢字では解と書く。韓国語の「へ(太陽)」は日本では「ヒ」になる。したがってモスへはモスヒという発音になる。これがムスヒに転音しているのである。

 高句麗王統は仁徳、反正、履中の3代で終わってしまい、その後、新羅王統が入ってくるが、これも雄略で滅んでしまう。その後の後継者として元百済王東城王であった牟大が倭国に戻って武烈王になるなど紆余曲折があるが、6世紀に入って北陸から琵琶湖北部にかけて勢力をもっていた継体がほぼ20年かけてヤマトの大王となる。

 こうした紆余曲折の中で、なぜ高句麗王統の神であるムスヒは生き残ったか。

 まず第一の理由はムスヒは高句麗建国王であった朱蒙の神でもあったので、高句麗に限らず、朱蒙後継の百済王朝でも祭られていた。新羅は5世紀前半は高句麗の占領下にあり、高句麗文化が盛んで朱蒙については直接祭ることがなくても尊崇の対象になっていた可能性がある。したがって朱蒙の祭る神ムスヒも半島全体で尊崇されていた可能性がある。

 もう一つの理由は高句麗王統とともに倭国にきた氏族である大伴氏と物部氏がその神をまもりつづけたからである。逆に言うとムスヒが滅ぶこともなく倭国の国家権力者の間で生き続けたことは大伴氏と物部氏が高句麗王統とともに倭国にきたことを示していると言うこともできるのである。ちなみに大伴氏も物部氏も祖先はタカミムスヒであったという研究結果が出ている(溝口睦子氏)。

 高句麗王統が絶えて、新羅系の王統、そして継体王統(おそらくもとは半島系)になってもムスヒが捨て去られなかったのは5世紀に我が国にきた大伴氏と物部氏が依然として国家権力中枢にいたからである。継体がヤマトに入る際、大伴氏と物部氏はムスヒを国家神として祭ることを大王として認める条件にした可能性もある。

 最後になぜムスヒの前にタカミがついているのであろうか。

 日本書紀《第一段一書第四》によれば、天地初判。始有倶生之神。号国常立尊。次国狭槌尊。又曰。高天原所生神名。曰天御中主尊。次高皇産霊尊。次神皇産霊尊。皇産霊。此云美武須毘。とある。高皇産霊をタカミムスヒと読めとしている。しかし、私は皇をミ、産をムス、霊をヒと読むのは藤原不比等らによる「おしゃれ」書きであると思う。

 皇という漢字を入れて「おしゃれ」書きをする前の古事記の表記の方が古くからの表記であったのではないか。その古事記には次の記事がある。安河之河原、天照大御神・高木神之御所。是高木神者、高御産巣日神之別名。つまり高御産巣日神の別名はタカギの神である。高は高句麗を意味し、高木は「高句麗から来た」または「高句麗の」という意味の可能性がある。タカギの神とは高句麗の神という意味になるかもしれない。

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