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7. 金印の「漢委奴國王」の読み方について



金印の漢委奴國王の読みかたついて通説は「漢の倭の奴の國王」と読む。しかし、漢の倭国の奴国というのは明らかにおかしい。この読み方だと倭国の中に奴国があって、その王、つまり奴国王の印ということになる。倭国の中に奴国があるというのは「国」がダブるのでおかしいとして、倭の奴国としても、奴国王の印ということに変わりはない。漢が倭国のほんの一部である奴国に国王の印を出すということはあり得ないと思う。またこれでは奴国国王の上に、倭国国王を考えることになり「国」概念が意味不明となってしまう。。

それはおかしいということから、この倭は国名ではなく民族名であるとする説がある。倭民族の奴国の國王だというのである。私は無理な解釈だと思う。国名の前になぜ民族名を書くのか、その理由が分からない。ここでも倭国のほんの一部である奴国に国王の印を出すということはあり得ないと思う。

「委奴」国を「イト」国と読んで、糸島あたりの国名と解釈する説もある。しかし奴は「ト」ではなく「ナ」であろう。魏志倭人伝に見える倭国の役人の名称「卑奴母離」はヒナモリと読むと推定されるが、奴という漢字を「ナ」に用いている。魏志倭人伝では「イト」国は伊都国と書かれており、「委奴」という表記ではない。

さて、私の考えを述べてみたい。文献(後漢書:成立五世紀)をみると
建武中元二年(西暦57年)倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年(西暦107年)倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見 である。

後漢書の成立は五世紀であるので、ほぼ350年以上も前の記事に信憑性があるかどうかが問題であるが、光武帝の印綬が発見されたことからみてかなり信用できると考えられる。信用できるとは350年以上も前の記録が残っていたということである。それを前提に上記の記事を読むと、倭奴國と倭國という国名が見え、倭奴國は倭國之極南界であると書いている。したがって普通に読めば倭奴國は倭國の一部であると思うのは当然である。

しかし私は次のように考える。

(一)倭奴國という国名の国はなかった。

(二)魏志倭人伝に奴國という国名の国があるが、この奴國と倭奴國は必ずしも関係がない。

(三)金印は西暦57年の光武帝の印綬であると思われるので、金印の委奴國は後漢書に書かれている倭奴國でよいと判断する。

その根拠を説明したい。

「ナ」は紀元前からlandを意味する言葉であった。土地であり、領土であり、また国という意味に拡張的に用いられるようになった。したがってこの時代の倭人の間では「奴」の意味するところは国であった。そこで西暦57年に朝貢した倭人が奴=国と考え、倭国という意味で倭奴と書いたのではないかと思う。

この時点では「クニ」という言葉はまだ生れていなかったか、生れていたとしても広く伝播されていなかったであろう。クニの語源であるが、国土を表すナの前に大きいという意味の韓国語クンがついてクンナとなり、それが変化したものと考えられる。

その当時、ナという言葉がクニを意味していたので、倭人が倭国という意味で倭奴と書いたものを、中国では「倭奴」を国名と誤解して、これに国をつけて倭奴国と書いたのではないか。

そうだとすれば、金印の漢委奴國王は通説のように「漢の倭の奴の國王」と読むべきではなく、「漢の倭奴の國王」と読むべきであるが、意味内容から言えば「漢の倭国の國王」である。こう解釈すればすっきりするであろう。

西暦107年の時点で中国はJapanを「倭国」と認識しているが、57年の時点では倭奴が倭国を意味しているという認識がなかったので「倭奴」を国名と誤解したというのが私の考えである。


しかし、大きな問題が残っている。

後漢書では「倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也」とあり、同じ文章の中に倭奴國と倭國と明確に区別して書いていることである。しかも、倭國の極南界が倭奴國と位置関係まで書いているので、私の解釈は無理ではないかと判断される方も多いであろう。この後漢書の記述をそのまま読めばそうであろう。

この問題を考える前に見ておきたい資料がある。有名な魏志倭人伝である。
魏志倭人伝は中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第三〇巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条のことである。『三国志』の著者は西晋の陳寿で、書かれた時期は三世紀末で280年(呉の滅亡)から297年(陳寿の没年)の間であると考えられる。

その魏志倭人伝に倭国を構成する諸国の名称が乗っているが、国概念に混乱があると思う。「狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国」などの国々があったと書かれている。邪馬台国はこれらのほぼ三十国の国々の中の一国である。

統治については邪馬台国の女王がこれらの国々を統べているという。ここの国という概念に注目すべきである。これらの三十国をまとめた総体には名称はない。敢えて名付けるとすれば倭連合国である。これらのほぼ三十国をまとめた総体を倭国とは言っていない。国という言葉=概念が重複してくるからである。しかも魏志倭人伝であって魏志倭国伝とはなっていない。 

さて、上記のような記録はすべて中国の史書に書かれているものであるので中国人の認識の問題として理解するべきであると思う。次の3つの時期に中国人史家はJapanをどのようにとらえていたのであろうか。

1 西暦57年、107年(金印授受と倭國王帥升の朝貢)
2 西暦280年~297年 魏志倭人伝が書かれた時代(邪馬台国時代)
3 西暦432年~445年、後漢書が書かれた時代

1 西暦57年ごろには倭国という意味で倭人は倭奴と書いた。それが中国人には国名ととられて倭奴国という表記が成立した。

2 西暦230年ごろの魏志倭人伝は倭国という概念をもっていなかった。日本列島から半島南部にいる倭人がほぼ30のクニを作っており邪馬台国がそれらのクニをまとめていたという認識である。倭国という概念がないので、当然、倭国王という概念がない。

3 後漢書が書かれたのは432年以後、范曄が亡くなる445年までの間であるが、この頃には「倭国」という概念がはっきりしてきた。そして後漢書の中に古記録に基づいて「倭奴国と書いたが、一方で、5世紀当時の倭国の認識に基づいて「倭国の極南の地」であると書き込んだと推測する。

つまり「倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也」という文章の「倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫」は西暦57年に漢に使いが来た時代の記録に基づくが「倭國之極南界也」は著者の范曄が当時の認識に基づいて書き込んだものと思う。

これが一つの文章の中に倭奴國と倭國が書き込まれている理由であろう。ついでに倭國之極南界の意味について考えたい。432年から445年までの間というのは仁徳大王が崩御して次の履中、反正大王時代である。私の仮説ではこの時代の倭国は半島南部に広大な領地をもっており(古代史の仮説Iを参照)、半島南部から北九州一帯を5世紀当時の倭国とすると朝貢してきたのはその国の南端、福岡県あたりであったという認識を書いたものと考える。

西暦107年の倭國王帥升等の「倭國王」という表記も問題であるが、これも5世紀当時の認識で書いたものと思う。

以上をもう一度まとめると次のようになる。

1 西暦57年ころは倭那=倭国
2 西暦280年~297年 邪馬台国がトップの連合国家で「倭国」という概念はない。魏志倭人伝であった魏志倭国伝ではないことにも注意。
3 西暦432年~445年 半島南部から北九州におよぶ倭国が成立していた。

中国でもずっと後になって倭奴国が倭国であることに気が付いたようである。西暦945年に稿をあげた『旧唐書』の倭国日本国伝には倭國者、古倭奴國也(倭國はいにしえの倭奴國である)と書かれている。「倭奴國はすなわち倭國である」ことを確認したようである。しかし、相変わらず「倭奴」が国名であったとして、その後に「国」をつけている。ただ、『旧唐書』の著者が、漢の時代の倭奴国が私の言うように言葉の誤解に由来するものであることを認識したかどうかは不明である。倭奴国が倭国と改名したという認識であるかもしれない。

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