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【絵画】ベアトリーチェ・チェンチの肖像


ベアトリーチェ・チェンチの肖像

ブログによくお越し頂く方が『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』という
絵画の存在を教えて下さった。

早速、グーグルを駆使して探しまくり、なんとも心に突き刺さる「少女の絵」に向かい合い、ネット上の、沢山の記事・解説を読み漁った。

ローマ市街バルベリーニ宮殿中の一室にグイド・レーニという人の作になるその 「絵」 があるそう。

濃い薄茶色の空間に独りの少女が、深い哀しみを湛え、まるで最後の挨拶をするかのように振り返っている。

伝説によると、
この少女は極悪非道な父親によって郊外の古城に監禁され、
成熟するかしないうちに有ろうことか実父に陵辱を受け、
終には兄弟家族や友人の手を借りて、その実父を殺害し、
死刑の判決を受けて断頭台に送られ、
非業の運命に翻弄された短い一生を終えた。

この絵は、儚くも22歳の若さで旅立った実在の少女「ベアトリーチェ・チェンチ」の遺影だという・・・

死刑を待つその直前だろう。
支援者から送られたのであろう、麻衣で誂えたようなだぶだぶの白装束を
身にまとい、死刑執行のため、スカーフのような薄手のターバンで
美しい髪をまとめているベアトリーチェの姿は、薄倖であった短い生涯を
天が祝福しているかのように不思議な光を浴びて輝いている。

1577年、ベアトリーチェは ローマ貴族の中でも名家として知られるチェンチ一族の娘として生まれる。

一族の長であるベアトリーチェの父親は、極悪非道の限りを尽くしてローマにいられなくなり、山奥の村の城へ隠遁。
次第に絶世の美女に成長するベアトリーチェをも 他の男が寄りつかないよう城内に監禁。時折現れては、彼女を奴隷のように酷使した。

美しい娘の精神と肉体を痛めつけることに 快楽を覚えた父親は、
20歳となったベアトリーチェを陵辱。
父親と絶望的な現世から逃れるため、ベアトリーチェは父親を殺害する。

当時、家長殺害は極刑に値する重罪。裁判所は死刑の判決を。
多くのローマ市民はベアトリーチェに深く同情し、死刑に反対した。

しかし、市民の懇願を無視し、時のバチカン教皇 クレメンス8世 は、
チェンチ家の領地と財産の没収を企み、ベアトリーチェ だけではなく
一族全員の死刑を言い渡したという。

1599年9月、ローマ市内を流れるテベレ川にかかる橋の傍らの広場で、
ベアトリーチェは断頭台の露と消えた。

ベアトリーチェ が処刑された広場に集まっていたローマ市民は怒りと興奮で騒ぎ出し、多数の死者と負傷者を出したという。

いまもヨーロッパに語り継がれるという、400年前の悲劇の伝説 ──。


ベアトリーチェ・チェンチの悲劇は、暗黒の時代を象徴するヒロインとして、多くの画家たちによって描かれた。

しかし、グイド・レーニの作品を越えるものは生まれなかったという。

レーニはほとんど茶と白と黒しか使わず、その単純な色彩を駆使して悲劇の物語を映し出した。

この肖像画によく似た絵がある。
1665年頃に描かれたフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』。

同じターバンに、同じポーズをしている。

フェルメールはグイド・レーニを知っていたのだろうか・・・
オランダの風俗にはなかったターバンを、なぜ少女が頭に巻いていたのか 「謎」 といわれてきた。

もし、フェルメールがグイド・レーニの絵を知っていたとしたら…。

『真珠の耳飾りの少女』は「北のモナリザ」とも呼ばれてきたが、本当は「北方のベアトリーチェ」だったのかもしれない。

ローマを一望できる丘の上に建つサンピエトロイン・モントリオ教会に、ベアトリーチェは眠っている。

「名前も墓碑銘も刻まないで」 ・・・ という、ベアトリーチェの願いに沿ったものだという。

ベアトリーチェの悲劇は伝説となり、ヨーロッパに流布した。
多くの文学者や音楽家が、この物語を書き留めている。

フランセスコ・グェラッジによる小説。スタンダールによる小説。
イギリスの女流詩人シェリーの手になる5幕の悲劇。
その脚本を基に作曲された ハヴァーガル・ブライアン のオペラ・・・・

泣きはらして、もう涙は枯れ切ったのだろう。
はかなく呆然とした表情で、力なく振り返りつつ、
「この苦しみの多い世界からようやく立ち去ることができるの。
「あなた、よろこんでくれるわね?・・・・

と、語りかけてくるベアトリーチェの横顔が、抗えない現世の強圧の存在を痛ましく思い出させ、観る者を、どうしようもない不条理に誘い込んでしまうのだ・・・。

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