【雑記】やる気の閾値という概念

「やる気の閾値」というものが有る、と最近思うようになった。平均的な人が「やる気がある」と思うやる気の閾値が100とするならば、20ぐらいで「やる気がある」と思う人もいる。閾値100の人から見ればその人はやる気があると言っているだけでないようにしか見えないが、当人としては十二分にやる気がある状態だ、という話だ。

 閾値が低いこと自体は何も悪いことではない。意欲という有限のリソースを、より多くのものに割くことが出来るマルチタスカーには求められる性格であり、閾値を超えて意欲を注いでいることだって普通にある。ただ、ここで問題としたいのはそういう人たちを「上達」させることの難しさだ。
 やる気のない人をやる気にさせる方法は多い。やる気のない人を上達させる方法もある。しかし閾値の低い人が「やる気がある」状態で、他の「やる気がある」人と同じ上達を望むのは極めて困難である。周囲に成長速度で置いて行かれて、悔しさや焦りは覚えるのに実際には上達しない。やる気が足りないからだ。
 やる気の閾値が低い人にとって、普通の人のやる気がある状態は熱中や熱狂に近い状態に見えるのかもしれない。しかし「上達」に於いて重要なのはやる気があるかどうかではなく、「やる気が足りているか」だ。言ってしまえばやる気の閾値が高い人は、やる気がなくても上達出来る。求められるのは絶対的なリソース消費量であり、閾値を超えているか否かではない。

 さて、やる気の閾値が低い人を上達させる方法とは何か。それはやる気がある状態を越えて熱中させる他ない。しかしこれは他人からのアプローチだけでは成し得ないことだ。更には閾値の低い人は低いなりにこなす術を身につけている傾向にあり、上達しなくてもなんとかなる、満足感を得られる手段を知っている。これが上達という目標に対してとかく相性が悪い。普通の人なら勝手に上達するレベルでさえ「わざわざ上達する為にリソースを割く理由」が必要になるからだ。
 やる気の閾値が低い人が上達するにはやる気が足りない。でも閾値が低いだけでやる気はあるから上達したい。でも閾値が低い人は上達の妨げになる思考が根底にある。この歪みを解消するには、結局当人が向き合うしかないように思う。上達する為にリソースを割く理由を自分自身で見つけるか、上達することを諦めるしかないのかもしれない。閾値の違う人同士では、この認知の歪みをお互いに理解しあえないのだから。

 平均的な人のやる気の閾値、と言う表現を使ってしまったが、やる気の閾値は人によって様々なのだろう。だからこそ「自分は努力しているのに」「あいつは努力していないのに」そんな感情に人は悩まされるのだ。人は人を相対的に見ることしか出来ない。しかしながら境界線というものは、絶対的な指標によって出来ている――ということを、覚えておきたいものだ。

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