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心の持ちようで、どうにでもなる

ウチの近所の神社にも会社に向かう途中にある神社にも、おんなじ「生命の言葉」というのが掲げられている。調べてみると、都内1398の神社をとりまとめる東京都神社庁というところが毎月選び出しているそうだ。様々な人の様々な金言名言に、なるほどなーと思う時もあるし、なんだかしっくりこないこともある。それでもひと月のあいだ、通りすがりにそこにある言葉を眺めていると、それなりに色々と考えさせられる。2月は、渋沢栄一の言葉だった。

「世の中のことはすべて 心の持ちよう一つで どうにでもなる」

世の中どうにもならないこともある。そう思うことでやるせない心を収めてしまうことの方が多い。でも、あの渋沢は、そうではないと言っている。「心の持ちよう一つで」「すべて、どうにでもなる」というのだ。2月のあいだずっと、私は、何度もこの言葉を反芻した。

こないだの会議で、なんとなく納得いかない話があった。まあいいやと頭から消そうとしていたけど、なんだかモヤモヤするので、同僚と雑談したついでに聞いてみた。あの仕事どうしますか?と。

愚痴を言うのも批判するのも疲れるうえにいいことない、ということに、私は漸く気づいていたから話し込むつもりはなかった。ただ、どうするつもりなのかなあと思って尋ねただけだった。でも、同僚は表情を固くして、会議室で話そう、と言った。

曰く、「あの件をSpigola さんがどう思ったか想像がつくが、正面から意見したところで対立するだけで埒が開かない。だから、能動的に動かず、頼まれたことに淡々と応じればよい。」

どんなふうに思ったと想像したのかしら、と思いながら私は言った。「割り切りは大事ですね。」

そういう考え方もある。同僚の発言を尊重したつもりだったが、思いがけず強い調子で反論された。

「そんなネガティブなことは言っていない。私はこの状況を受け入れ、できることにフォーカスしている。でもあなたは、できないことにフォーカスしている。」

確かに、やれないこと、そしてやっても恐らくうまくいかないだろうことに、私の意識は向いている。理由は明快で、それこそが大切でやるべきことだと、私は思っているからだ。だけど、今はやれることをやるしかないことくらい分かっているし、実際にやってもいる、それもかなり丁寧に、きちんと取り組んでいる自負はある。

とはいえ、それを主張したところで、どうなるわけもない。私はつい「エライなー。」とつぶやいた。すると今度は「なんか、棘のある言い方!」と言われてしまった。ちょうど会議室を予約していた人たちがドヤドヤとやってきて、そこで話はおしまい。

皮肉を言ったつもりはなかったけれど、私の言葉は同僚の心を刺したらしい。やっぱり無理してるんだなあと感じ、それでもそれが本人が選びとった行動だと思った。

どうせやるなら自分も一緒に前向きに取り組もう、というふうには、私は思えなかった。どうしても納得いかない自分を尊重するのも、ひとつの心の持ちようだ。結局、ものごとをどう捉えるかは、人それぞれなのだ。

自分の感覚を信じて進むのって勇気がいる。周りに合わせる方が簡単だ。だからこそ、流れに逆らっても、心に正直な生き方を良しとする自分でいようと思う。必ずなんとかなるはずだから。

3月の「生命の言葉」は、大好きな佐藤一斎先生のメッセージだ。


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