【日記】社会はもっと僕に同情するべきだ。

 僕は、日本人によく嫌われる。

 他国に行ったことがないから、「日本人にのみ」嫌われやすいのかどうかは定かではない。








 しかし、とにかく嫌われる。

 通りすがりに罵声を浴びたり、急に睨まれたり、弁当を隠されたり、公園で服を脱がされたりする。







 なぜなのか。

 僕は、その答えに近づきつつある。








 日本人は、すごく真面目で、優しくて、仲間思いだからこそ、「変な人」がいると排除したくなる。

 そういう仮説も考えられたが、どうも違う気がしてきた。







 本当は、日本人は、真面目ではないし、優しくもないし、仲間思いでもない、のでは。

 ただ、真面目であるべきだ、優しくあるべきだ、仲間思いであるべきだ、と、みんなで一緒に思い込んでいるだけなのではないか。








 日本のいたるところでは、誰がいちばん真面目か、優しいか、仲間思いか、その競争が繰り広げられている。

 お年寄りが乗車してきたら席を譲りたくなるし、泣いている人がいたら話を聞いてあげたくなるし、ゲームで遊んでいる人がいたら「勉強しなさい」と言いたくなる。







 長年、僕は、周りの日本人がそれらの行動に出る動機は、真面目だからだ、優しいからだ、仲間想いだからだ、と思い続けきてきた。

 僕の中にそういう真面目さや、優しさや、仲間思いなところがないことについて、強い劣等感を覚え、自分の自己中心性の酷さに苦しんできた。

 しかし、違う。なにかが、おかしい。僕は気づいてきた。








 これらは、心の底から出てきた行動ではない。

 みんな、なにか大きなものに屈服しているし、そして、みんながみんな、息苦しそうにしている。








 戦っているのだ! と、僕は気づいた。

 自分がいかに真面目であるか、いかに優しいか、いかに仲間思いか、ということについて、見せつけたいのだ。

 集団から阻害されることを恐れ、いかに自分が日本的な価値観に合致しているかについて主張を繰り返し、それなりの日本人を演じていることに安心しようとしている。








 日本人がどこにもいない。

 全部、模倣。








 僕を批判してくる人たちは、すごく人格的な人なんだろう、と勝手に思ってきた。

 だって、他人に口出せるって、相当、自分に自信があるんだろうなあ、と。

 しかし、違う気がしてきた。







 彼らに日本人の心があるわけではないのだ。

 彼らは、むしろ自信がなく、うまく優しい人や真面目な人や仲間思いな人を演じることに失敗し、最後の手段として、まったくもって「変な人」を攻撃することで、自分の正統性を維持しようと死に物狂いで生きているのだ。








 もう、諦めませんか?

 はっきり言おう。僕はまったくもって優しくないし、真面目じゃないし、仲間のことなど、どうでもいいと思っている。そう思う自分を否定してきたが、もう、否定しきれなくなってしまった。








 それが僕という人間の本質であり、それ以上に美しいものは出てこない。

 誰かを助けたり、手伝ったりもするけれど、それはなにか神聖な力に導かれたわけではない。なんとなく、である。








 優しさだ、とか、真面目だ、とか、仲間思いだ、とか、日本人が振りかざす正論は、現実離れしている。

 そういうものを振りかざされると、本当に真面目な人が勘違いしてしまい、「自分はなにか汚い存在なのではないか」と、不必要な不安を抱かせることになる。









 人間は、みんなが言うほど美しいものじゃないということを教えていかないと、

 学校教育を鵜呑みにした僕みたいな人間が可哀想である。

 社会はもっと僕に同情するべきだ。