【考察】道徳の強さの決定プロセスに関する一案
こんにちは、山本清流です。
僕は、いろいろ虐げられてきたので、日本社会にあまり感謝していません。
中国が攻めてきたら、僕は喜んで日本を捨てて、アメリカに逃げます。
これは持論ですが、日本社会の(僕にとっての)問題は、強すぎる道徳観にあると思います。
今回は、この道徳の強さについて、考察したいと思ったわけです。
まずは、仮定から。
これは現実的な仮定ではありませんが、かりに、道徳の強さを基数的な数字で表すことにします。
たとえば、2という道徳と6という道徳では、後者のほうが3倍キツい道徳であると考えます。
次に、世の中には二種類の人間がいると想定し、
一方は2という道徳が最適水準であり、もう一方は6という道徳が最適水準であるとします。
これはどういう意味かというと、前者の人間は2より強い道徳に不快を感じ、2より弱い道徳に不足を感じるということです。
もう一方の人間も同様です。後者の人間は、6より強い道徳に不快を感じ、6より弱い道徳に不足を感じます。
かりに、この二種類の人間が社会全体においてどんな比率であるか、わからないとしましょう。
このとき、pを弱い道徳を好む人間の全体に対する比率であると考えると、
この社会では、(2×p)+{6×(1-p)}の道徳の強さが最適であると考えられます。
たとえば、かりに2種類の人間が社会全体で半々であったとすると、単純な平均である4の道徳が実現されるでしょう。
しかし、この状態は安定的でしょうか?
そんなわけがありません。なぜなら、一方は強すぎる道徳に不快を感じるし、もう一方は弱すぎる道徳に不足を感じるからです。
つまり、この社会においては、4または別の仮定による道徳の加重平均を軸としながら、その周りをぐらぐらと揺れ動くものであると考えられます。
このとき、社会全体での道徳水準は一定にはならず、時間経過によって流動的なものと考えて間違いないでしょう。
このときの流動的な動きの確率を、みんなの道徳の最適水準の加重平均を中心とする正規分布で表すならば、
より平均に近い人間が最適とする道徳水準のほうが、もう一方よりも高い確率で実現されます。
ここで社会全体の2種類の人間の比率によって道徳を加重平均したことを思い出せば、この結果はただちに、
多数者が保有する道徳のほうが高い確率で実現すると断言することができます。
したがって、世の中で実現される道徳は主に多数派が好むほうに吸い寄せられ、少数派が好むものより高い確率で出現するでしょう。
このことは弱い道徳を好む人々によって不快感が高まる可能性が高いことを示します。
ここでひとつ観点を変えて、それぞれの人たちの道徳の加重平均と自分が好む道徳との差を足し合わせていき、その合計値を考えましょう。
たとえば、いまここに10人の人間がいて、それぞれが半々でそれぞれの道徳を好んだとすれば、合計値は20になります。
もしも4人が弱い道徳を、6人が強い道徳を好んだ場合、上と同じ計算をすると19.2になります。
もしも3人が弱い道徳を、7人が強い道徳を好んだ場合、同じくして、16.8になります。
これは実現される道徳との差をみんなのぶん足し合わせていったものなので、社会全体としては合計値が小さいほうが好ましいと言えるでしょう。
ここでは、社会での2種類の人間に偏りがあったほうが合計値が小さくなることが簡単に推測できます。最終的には0になります。
難しく考える必要はありません。
たとえば、極端なケースとして10人中10人が強い道徳を好んでいれば、当然、平均は6になり、これは完全に安定的で、誰にも不満はないからです。
偏りがあったほうが、望ましいのです。
ここまでの思考を組み合わせていけば、次のように考えられるでしょう。
道徳の水準を、それぞれを好む人々の割合で加重平均したものは、安定的ではないために変動します。
当然、多数派の道徳が実現される可能性のほうが高いです。
しかも、社会全体としてはどちらかに偏っていたほうが望ましい結果になるため、少数派を淘汰したり、殺したり、遠くに追いやったりすれば、社会全体が改善されます。
このように、ある意味で公平的な加重平均は安定的ではないために、多数派の道徳に合わせようとするメカニズムが働きやすいと言えるのではないでしょうか。
今日の昼、うどんを食べているときに、こんなことを考えていました。(僕はいったい、なにを考えているのだろう)
この思考は、もしかしたら、僕の社会に対する怨念によって組み立てられたものかもしれません。
しかし、安心してください。僕はずっと善良な市民であり、暴力的な手段に出たことはありません。
お読みいただき、ありがとうございました。