【読者感想文】夏木志朋著『二木先生』がよかったです。

 先日、三省堂へ出かけたとき、棚の一段ぶんを『二木先生』が占拠していた。

 書いたのは夏木志朋という新人作家で、これがデビュー作らしい。僕は知らなかった。

 その棚には『二木先生』の売り行き部数の表示もあり、その店舗だけですでに100冊以上売れているらしかった。

 さまざまな出版社や書店の人々からの絶賛コメントを羅列した文庫本の表紙もクールだった。

 僕は『二木先生』を手に取り、その場で冒頭を読んでみた。最初の数ページだけで、主人公と二木先生のキャラクター、対立関係がはっきりと浮かび上がった。これはすごい。僕は、そのままレジへと進んだのであった。

 かくして僕は『二木先生』を読んでいくことになった。今回は、この本の感想を書くことにする。







 あらすじとしては、周りとの感覚の違いを抱えた主人公の男子高校生が周りに擬態することを諦め、開き直るように自分のありのままを露出していたが、とある秘密を抱えた二木先生がうまく周りに擬態していることに気づき、二木先生へ粘着していく、というもの。主人公は二木先生の弱みを握り、執拗につけまわす。

 自分と同じように特異な気質を持つ先生を攻撃することで、普段の鬱憤を晴らしているのか? あるいは、うまく周りに紛れている先生を羨んでいるのか? 主人公は二木先生とのやり合いの中で、内省を深めていく。






 テーマは、おそらく、「社会と個人の対立」という、よくあるやつだが、キャラクターの立ち位置がわかりやすくて腑に落ちる。

 主人公は、自分を優先しているので、周りからは嫌われ、いじめに近い扱いを受けている。その一方で、二木先生は、生徒から嫌われないための言動を意識的に繰り返しており、生徒たちからむしろ好かれている。だが、本当はロ○コ○なのである。







 本作が最終的に提示するのは、他者には理解されない自分の心の領域をどこかに隠しながら、自分を否定しないまま(自分を好きなまま)で、表向きは周りに合わせていけば、社会では生きやすくなる、という当然の処世術(サバイバル技術)である。

 主人公はそこに辿り着くまでに捻くれたり、開き直ったりして、右往左往してるので、読み終わったときには、ようやくそこに辿り着いてくれたなぁ、という達成感があった。

 珍しく、僕でも共感することのできる主人公だった。






 誰しも、周りと合わないな、と感じたことはあるだろう。

 多くの人は、それでも、なんとなく周りに合わせることができるのだろうが、この主人公にはできない。

 かわいそうなので、共感できる。

 そして、二木先生は本当にかっこいい。主人公とともに、憧れを抱いた。







 僕は本作を読んでいる間、真面目に主人公を応援していた。ファイト! と。置いてけぼりにされている感じがなかった。これは珍しい読書体験だ。

 どうか、うまくいきますように、と祈りながらページをめくった。ラストは構成的な美しさとともに、僕の期待を受け止めてくれた。

 満足した。よい読書だった。







 でも、あくまでフィクションだな、と思ったのも事実だった。

 当然のように、誰もが二木先生のようにいくわけではない。もっと悲観的な人もいるし、そんなに頭の回らない人も多い。現実はもっと悲惨だし、救いがない。

 社会の多数派に抑圧された少数派は、往々にして世間と戦わざるを得なくなるだろうし、その戦いの中で蓄積された怒りはいずれ外に向くか、でなければ内に向かう。日本人は優しいので、多くの場合、内に向かう。この世には地獄がある。






 結局のところ、メンタルが強いか弱いかでしかないような気もする。本作の主人公は、奇抜な感覚を持ち合わせつつも、メンタルが強めに設定されていた。メンタルが強ければ、細かい理屈はどうあれ、自動的に到達する境地というものがありそうだ。

 なんらかのきっかけがあって成長したというよりは、もともときっかけさえあれば成長できる状態だった、という感じである。この主人公は。

 しかし、まあ、そこには、目を瞑るしかない。ホラー映画によくありガチだが、メンタルの弱い主人公にしてしまうと物語の展開を起こしにくくなるので、メンタルを強めに設定したほうが書きやすいのだ。本作でも、メンタルを弱く設定すると、主人公が不登校とかになって物語が展開しなくなる。仕方がない。

 というか、小説に出てくるキャラクターは、基本的に鋼のメンタルだ。ハリーポッターなんて、いくら仲間が死んだことか。苦しいと言いつつ動きつづけるキャラクターたちがエンタメ業界にはあふれてる。そう考えると、本作に特有の問題ではない。ごめんなさい。

 ともかく、これだけ共感できることは稀であった。よかった。

 オススメする。