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【日記】記憶はつくれないけど、素材は選べる。

 こんにちは、山本清流です。

 もう無理だ。エネルギーが残っていない。





 
 人と関わった方がいいとは思うけど、生まれ持った「空気が読めない」という特性によって、

 僕は、頑張って人と関わっても、うまくいきませんでした。

 それが24年、続いた。







 もう頑張ろうという気持ちが枯れ果ててしまいました。

 だから、完全なる努力からの撤退を決意しました。







 今後、僕は、新たな人と関わるための行動は起こしません。

 極力会話をせず、無言で日々を送り、静かに小説を書きながら生きていきます。






 そう思うと、かなり楽ですね。

 はじめからそうしていればよかったのだけど、小学校のときから、「人と関われ」「自分をさらけ出せ」という同調圧力を受け続け、

 まるで人と関わらないことが人間として失格であるような錯覚をしていました。







 もともと、僕は誰かとわいわいしなくても、ひとりだけで遊べる人間なので、

 人との繋がりは少なくても問題はありませんでした。それなのに、無理をしようとしていたのは、社会の圧力のせいですね。






 
 社会の中で「ダメな人間」として見下されることが怖かっただけです。

 つまり、僕の人生は、最初からゴールだった、というオチの可能性が出てきました。







 ゴールを目指そうとして、ゴールから遠ざかっていたのかもしれません。

 なにもしなければ、すでにゴールだったのかも。






 ひどい人間に出会ってきたものです。

 とくに教師は嫌いです。一概にはいえないけど、教師の多くは社会の圧力に染まっていました。多様性と言いながら、僕のような人間を心の中で見下し、成長すべき不完全体として捉え、改善、更生させようとしてきました。






 
 そのせいで幸せから遠ざかってしまった。

 多様性だと言うのなら、心を閉ざして生きることを否定すべきではない、と思います。それも生き方の一つであり、それがいちばん幸せな人もいるのです。






 僕は現在、主に教師たちによって汚染された記憶を洗浄するため、

 インパクトの強い新たな記憶を加える必要に迫られています。






 単調な日々を過ごすだけでは、記憶は際限なく膨張していくだけです。

 強い負の記憶を洗い落とすには、純粋な感動が必要です。







 ということで、僕は、ミュージカル旅行を計画しました。8月21日から25日まで、東京に滞在し、劇団四季のミュージカルで記憶を洗います。

 変な言い方かもしれませんが、これはたしかに記憶の洗浄なのです。






 いま僕は24歳ですが、いまだに毎日、中学生のときや高校生のときの教師たちが頭に出てきて、僕を責めたてるのです。

 これは妄想ではなく、蠢く記憶です。






 記憶は日々変化しますが、容量が決まっているため、新たなものが加わると、古いものは押し潰され、小さくなって、やがて消えていきます。

 おそらく刺激的な人生を送っている人たちの記憶は、ほとんど現在で構成されていて、過去のものは圧縮され、ほとんど思い出さないのでしょう。

 一方、僕の現在にはインパクトがなく、新たなものが加わらないため、記憶の中で過去が膨らみすぎています。

 それを押しつぶすためにミュージカルが現実的に機能することを、僕は『キャッツ』の四回の観劇の中で確認しました。





 

 記憶には、記憶を。

 記憶をもって、記憶を制す。






 昨日は、『ジーザスクライスト=スーパースター』を観劇してきたのですが、

 これはかなり効果がありました。2時間にも満たないミュージカルなのに、余韻として思考や感情が残り、漂い、頭を支配し、僕の頭を占拠していた悪者たちを明らかに押し潰しています。

 







 僕は気付いたのです。

 記憶は僕の頭が勝手につくってるものですけど、僕の頭が喜ぶものを投下することは、僕にもできるのです。

 記憶として頭に残り、ひろがり、蠢くものは僕にはコントロールできないけど、その素材選びをすることは、僕にもできるのです。

 良質な素材を選り抜いて投下することによって、僕は僕の記憶を間接的に支配できます。





 自分が自分によって動いていると感じ始めたのは、大学生になってからのことですが、フリーターになった現在も、日々、この感覚が強まっています。

 自分が自分の意思で動いていないことに気づいてしまう、あの無力感が、どんどん遠ざかっていくことが楽しいです。