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【ショートショート】ペルソナソサイエティ2.0


 新しい法律ができた。
 厳密に言うと、現行刑法に新たな規定が加えられただけだが、テレビや週刊誌は「ルッキズム防止法」と騒いでいる。
 ルッキズムを解消せよという国際的な圧力が強まる中、二年前、神奈川県で、公の場でマスクを着用する努力義務が条例として加わった。これが全国にひろがり、マスクによって顔の美醜を平坦化した平等な社会を生み出そうという「ペルソナソサイエティ」のスローガンが広まった。
 しかし、ただのマスクでは、容姿を隠しきれない。そこで登場したのが、ニット帽とマスクとサングラスをくっつけたようなデザインの、顔全体を覆い隠すペルソナマスクだ。これもまた地方から導入が始まり、ついに国会が動いた。今回の刑法改正により、公の場では全国民にペルソナマスクを着用することが義務付けられ、違反した場合は、公然わいせつとして処罰されることになった。
「これが、ペルソナソサイエティ2.0、ってわけね」
 ぼそっとつぶやいた私の隣で、ここ最近、M字型に禿げてきた夫は興味なさそうにスマホをいじっている。
「……ああ、めんどいよな」
「ホントに。外出するとき、いっつも、あんな蒸れるマスクをつけなきゃいけないなんて、わたし、ムリなんだけど」
 ぼやきつつ、胸の中では、この新たな法律を歓迎していた。

 イエローとグリーンの妖しげなネオンに彩られた夜の歓楽街を進んでいくと、待ち合わせのベンチに、上下イエローのジャージの男が座っていた。すっぽりと頭を隠しているペルソナマスクまでイエローだ。
「サトシ?」
「ああ、君か。待たせてくれるじゃない?」
 待ちに待っていた爽やかな声に、胸の糸が緩む。私はサトシの腕にからみついて、ベンチから立ち上がらせた。
 ぎゅっと握ったサトシの薬指には、きらきらと輝く指輪があった。妻とは一年以上も交わっていないらしい。お互いにペルソナマスクを被っていれば、堂々と自分たちの世界に沈みながら、躊躇なくパートナーを裏切れる。
 ラブホ街に足を踏み入れれば、まるで仮面舞踏会のように、顔を隠した男女が行き交っていた。路上で抱き合うペアもいた。
「わたしたちもやってみる?」
「俺はいいけど?」
「冗談よ。でも、このマスクのおかげで、どうせ、バレないもんね。やりたくなる気持ちはわかるわ」
 そのまま、サトシがあらかじめ予約してくれたホテルに入った。
 淡いオレンジのライトに照らされた防音の一室に入るなり、サトシは、ふう、と怠そうな息を吐いた。振り返ると、ごめん、と手を合わせてきた。
「俺、ちょっと疲れてんだわ。実は、無理して来たんだよね」
 サトシは、ばんざいをするように両腕を伸ばしながら、ペルソナマスクの下で大きな欠伸を零した。
――マジかよ、こいつ。
 溜息を吐きたいのは、こっちだった。せっかく少女のように胸が高鳴っていたのに、なんて空気の読めないヤツだろう。
 とりあえず不満を胸の底に押し込んで、ペルソナマスクを先に脱いだが、サトシはあとに続こうとしない。それどころか、こっちを振り向きもしなくなった。私が腰かけたベッドに近づこうとさえせず、なぜか、出入り口のドアがしっかりとロックされていることを、何度も確認している。
「どうしたの? カギかかってない?」
「いいや、かかってるよ」
 サトシは、トーンを落とすと、とぼとぼと私のほうへ歩いてきた。とても、これから行為に及ぶようなテンションではなかった。「ほら、脱いでよ」と急かすと、ようやくペルソナマスクに手を伸ばした。顎の下の部分をつかむと、一気に剥がした。そこにM字型に禿げた頭を見つけ、私は硬直した。
――こいつは……。
「……なんで……」
 目の前にいるのは、私の夫だった。
「サトシってヤツの振りをしていただけだぞ。この派手な服は、彼から借りたものだよ。声のほうは、市販されている変声機を使った。正直、信じたかったけどね、ここまで来てしまうと、もう信じるなんて、できないんだよ」
「あなた……」
 夫は、M字型に禿げた頭を見せびらかすようなポーズをとると、「これじゃ、もう、興奮できないか?」と恨みの言葉を吐いた。
「そういうわけじゃないのよ。そういうわけじゃ……」
 私の声は震えていた。サトシだと思っていたのにマスクの下から夫が現れるなんて、ただの怪奇現象だ。
 私はほとんど考える力を失って、親に支配された子供のように打ち明けていった。取引先のサトシと親しくなったこと、それ以来、こっそりと彼と身体を合わせていたこと、この新たな法律が施行されるのを待ち望んでいたことを。

 あなたの言うことはなんでも聞く、と一方的に謝罪を重ねたが、仁王立ちの夫は禿げた頭に血管を浮き上がらせていく。
「どうやら、この状況をしっかりと理解していないらしい。お前が匿名でできることは、お前以外のやつも匿名でできるということを、忘れているんだ」
「なにを言ってるの? わからないわ」
 本当にわけがわからなかった。私としては、まだ現在の状況を把握できていない。どうやって私たちの関係を知ったのか。いったい、サトシはどうなったのか。そもそも、なんでサトシの振りをしたのか。
 ぽかんとした反応が気に食わなかったのか、地団駄を踏んだ夫は「こっちに来い」と凄んで、わたしを奥の浴室へと連れて行った。
 私は叫び声を上げることになった。浴槽内で全裸のサトシが仰向けで倒れ、その胸にナイフが突き立てられている。
 血の臭いは、吐き気を催すほどだった。
 ぶるぶると震え出す私の足元で、夫は、ゆっくりと屈んで、右手を伸ばし、すっとナイフを引き抜いた。ぷしゅり、と浴室の壁に血が飛んだ。
「手短に説明しとくけど、俺は、お前の服を借り、お前の声を変声機でつくり、この男と接触した。幸い、俺は身体が細いほうだから、パッドで胸さえ膨らませれば、女性を演じることもできたのさ。顔が隠れてれば、あとは演技力さえあれば誰にでもなれる。騙したまま、ここに連れ込むと、不意をついて殺したんだ。それから、今度は、この男の服を借り、今度はこいつの振りをして、お前を騙した」
「いつ、わたしたちのことを?」
「お前らの関係を知ったのは、一週間前、お前を尾行したときのことだ。お前は匿名になったつもりでいたが、同じように匿名になった俺に尾行されていることに気づかなかったのが、運の尽きだな」
「でも、なんで、サトシの振りを……」
 まさか、と思った。この部屋は厳重にロックされているうえ、防音だ。ここでサトシは現に殺されていることも考えると……。
 私は心臓も凍り付く思いで、震えるように飛び退いて、夫から離れた。逃げようにも、逃げ場がない。しっかりとロックされてしまっている出入り口のドアに背中を押しつけ、そのまま動けなくなった。
 夫は血まみれのナイフを握ったまま、浴室から出てきた。脅すように、一歩ずつ、近づいてくる。
「ごめんなさい、あなた。許してちょうだい」
「ムリ、ムリ」
 夫は般若のような形相のまま、足を止めない。
「お願いよ、お願い。ここでわたしを殺したら、あなたの人生はどうなるの? ふたり殺したら死刑になるかもしれないのよ?」
 だが、夫は、薄く笑った。
「マスクのおかげで、どうせ、バレないもんね」

 私が夫に殺されてから一年もしないうちに、「ルッキズム防止法」は廃止された。
 その主な理由は、顔を隠すことを法的に義務付けることは憲法上許容されないという当然の点だったが、それに尽きるとも言えない。
 ペルソナマスクを被ることで匿名性を獲得した人々は、それまでできなかったことに容易く手を染めるようになり、まるでネット社会が現実化したかのようであった。街中では見知らぬ人同士が急に口喧嘩を始め、コンサートや選挙演説では直接的な誹謗中傷が起こるようになり、みな信号を無視するようになった。
 殺人件数は急増し、それに対して検挙率は激減した。
 その一例が私の夫だ。
 現場となった部屋に出たり入ったりする様子はホテル内廊下の監視カメラ映像に記録されていたものの、ペルソナマスクを被っていたせいで捜査は難航した。私たちを殺した夫は犯人として特定されなかった。
 今日も、夫は、完全に匿名になった私に監視されているとも知らないで、善良な市民の振りをして、『人を殺すなんて、クズにもほどがある。そんなやつは死刑だ』とSNSに書き込んでいる。
 私は、こいつを――このクズを――いつでも殺すことができる。
 どうせ、バレないもんね。





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 ご覧いただき、ありがとうございました。
 納得いかなかったので、これはボツ。もう一回、挑戦します。プロ作家さんのレベルに到達することを目標にします。