見出し画像

【日記】ホテル清掃員の静かな一日。

彼はいつものようにホテル清掃の仕事に出かけた。ホテルの事務所に入ると、「おはようございます」と小さい声ながら挨拶をした。事務所にいた5人ほどの同僚たちは、合わせるように薄い反応であった。チーフ代行である桜木さんは目を合わせて挨拶を返してくれた。彼は桜木さんにイライラした態度を取られたことをいまだに根に持っており、その程度のコミュニケーションでは桜木さんを信頼することはできず、警戒していた。仕事が始まるまでの待機時間、桜木さんは、親しげに片山さんに話しかけた。「あの、言ってたお店に行ってみたんだけどね、思ったよりも多くて、お腹いっぱいになっちゃったよ」すると、片山さんは、大きな声で同調した。目の前で展開されたその事態を、彼は、快く思わなかった。彼が声をかけるときはもっと薄い反応であったし、場合によっては「はいはいはい」と打ち切ったり、無言のまま目を逸らしてスマホに顔を埋めたりする。彼は、そんな桜木さんの自分と他者への対応の違いに腹が立ってきて、事務所の隅でひとり、静かに怒りに耐えていた。彼はあまり同僚と馴染んではいない。仲良くなろうと試みたことはあるが、嫌な気持ちになることが続いたので、結局、ほどよい距離感を維持することにした。朝の待機時間では、同僚たちの会話に参加することもない。彼が黙り込む中、事務所の中では話が盛り上がってきた。彼は幾らかの疎外感と焦燥に駆られたが、参加する勇気はなく、黙ったままでいた。すると、彼と同じように黙っていることの多い吉川さんが堂々とした声で話に加わった。彼はそれが嫌だった。まるで、自分が置いてけぼりにされたようであったし、自分の情けないところを嘲笑されたような被害妄想さえ広がった。朝から嫌な気持ちになりながら、彼は仕事を始めた。始めてみれば、一人きりで完結する仕事なので、気分は楽になった。しかし、彼の頭の中では、その朝の事務所での嫌な出来事に誘発され、遠く昔の嫌な出来事を思い出してしまっていた。高校のときに国語教師に嫌味を言われたことや、中学のときの担任の教師に厳しい言葉をかけられたこと、高校のときに遭遇したトラブルなどが蘇り、だんだんと彼は苛立ちを強めた。それでも、彼は仕事にのめり込もうとし、なんとかやりきった。清掃を終えたあと、カギをフロントまで持って行くとき、ロビーの片隅でフロントの誰かが支配人から説教されているのを、彼は目撃した。こんな人前で叱られるのは辛いだろうに、と不憫に思いながら、彼は自分の身に置き換えて、ひどく辛い気持ちになった。それとともに、自分ではない、という一種の優越感も出てきて、そんな自分に彼は自己嫌悪を感じた。その後、片付けを済ませると、彼はいつものように男子更衣室になっている倉庫に休憩をしに行った。スマホをいじっていると、佐藤さんがやってきて、なにやらイライラした様子で倉庫内を歩き回り、「これはこっちなのに!」などと愚痴を言っていた。愚痴の相手はフロントの方らしく、これまたフロントの人が可哀想になってしまった。だから、タイムカードを押してホテルを出たとき、彼はいい気分ではなかった。仕事を終えた解放感よりも、ホテルを出るまでに起きたいろいろな嫌なことのほうが重く心を包み込んでいた。これではだめだ、と、気分を明るくしようとする動きもあったが、どうしようもなく気分は塞いだ。彼はそのまま、牛丼屋へ行った。店に入ったとき、後ろから入ってくる人がいたので、奥に詰めて座った。だが、後ろから来ていた人は持ち帰りの注文をしたらしく、彼は無意味に詰めたことになった。席が空いているのに、なんで、わざわざ隣に座ってくるんだ、と隣の人が苛立っているのではないか、と心配しながら、椅子の隅の方に座って、できるだけ離れるようにした。彼は牛丼を食べている間ずっとそのことが気になり、早く店を出たくなっていた。彼は素早く食べ終えると、伝票を持ってレジへ向かった。やってきた店員は細く愛らしい目をしていて、彼は思わず目を逸らした。緊張しながら伝票を渡した。彼は70円引きとなる会員証を持っていたので、スマホの画面に会員証のQRコードを表示して「お願いします」とスマホを差し出しながら声を出したが、緊張していたせいで大きな声になり、店内の客に振り向かれてしまった。しかも、店員さんが「ポイントカードはお持ちですか?」と言ったのと被ってしまい、その質問は無視することになり、嫌な客になったことを悟り、彼は自分の不器用さを呪った。店員はテキパキとハキハキした声で対応し、会計を済ませると、逃げるようにして彼の前を離れた。またひとつ憂鬱の種を抱えることになった。彼はバスに揺られる間、気分を明るくしようと思って、スマホでお気に入りの数学勉強用のサイトを開き、集合論の勉強をした。数学の世界は理不尽なことがなく、彼は少しだけ安心した。だが、彼は、一度嫌なことが起こると、それを風船のように膨らませる能力に長けていた。というより、これは半分は呪いだった。家に着いた頃には、彼はさまざまな記憶をつなぎ合わせ、自分がいかに劣った存在であるかについて揺るがない証明を提示していた。それは受け入れがたく、自分よりも周りに問題があるのだ、と思いたくなった。そのせいで、彼は衝動的に、バイトをやめたくなった。あるいは、嫌な人たちが早く仕事場から消えればいい、と思った。人が消えることを喜ぼうとする自分が嫌になり、苛立ちよりも鬱々とした感じが強まってきた。家に着いてからは、自分のことがどんどん嫌になり、桜木さんに嫌われたのも自分が悪いと思えてきた。桜木さんに対して自分がとった過去の行動がひとつひとつ思い起こされ、どれもが気持ち悪くて、人間としてレベルの低い行動だ、と思えてきた。しかし、内省的に捉えることはできず、彼は、自分のダメなところを素直に認めることを拒んだ。彼はその夜、スマホで「イライラを鎮める方法」について検索し、三人称の日記を書くという方法を見つけ、試しにやってみることにした。彼は三人称の日記を書いているうちに気分が落ち着いてきた。そして、眠ることにした。