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12/30は「学校の再発明」について考えてみよう

明日の夜、年末座談会に参加します。会場はTOMO都市美術館……残席は今の時点では分からないですが、配信もあるようです。ちなみに無料です。

お題は「学校を再発明する」……コトの発端は、渡辺健一郎『自由が上演される』、小峰ひずみ『平成転向論』という2021年の群像新人評論賞の受賞作についての、みなみしま氏の応答。(詳細は上記のリンクからどうぞ!)

こちらを読んだとき、すごく腑に落ちまして。呼びかけに反射的に手を挙げてしまいました。(タイミング悪く、その後すぐに新型コロナ療養期間に入り、後遺症的な不調が結局治りきらないのですが……2022年っぽさを、こんなところで出さなくてもいいのに……)

おそらく、わたしの紹介に「教育」ってあるのは、教育の専門家というより、学校法人で働きながら考える人、という具合です。登壇と言いながら、観客席にいちばん近いところにいると思います。

専門家以外に語れない聖域のようで、文章化することはありませんでしたが、ここ数年、教育や学校という制度・場所について考えていて。偶然にも、学校法人の広報に転職しました。

学校そのものには、あまり良い思い出はなく、社会人になることに賭けていました。学校はダメでも働けばどうにかなると思ったんでしょうね(冷静に考えれば、内定も出なかったので最初から負けているのですが……)。

アルバイトや派遣、フリーランス含め色々な形で社会人をやりながら、ここ最近は私塾的な、スクールにいる時間が増えていました。昼間、会社で後輩にものを教えたあとで講義に出席する、というのも日常茶飯事に。スクールって制度はすごいのでは、と考えるようになりました。

しかも、この秋からは日本語教育を学び始めたところ。「もしかしたら院に行きたい」ぐらいには気持ちが膨らんでいます。

まぁ興味津々で入った学校法人ですが、自分が生きてきた環境とは真逆の考え方で、驚きました。教育の意義は稼げる有能な職業人を育成すること、以上! と言うような実務系の学校でして。世の中には実学しか要らない&教養は権威として利用すれば良いらしい。むしろ、それだけの価値しかないそうで。そんな文脈で、新しい学びの場とか、新しい学校という言葉を使うことに、自分はまだ抵抗があります。

いや、カルチャーってそういうことじゃなくない? むしろそれは、果たして新しいのか? むしろ世の中に迎合しているだけでは?

……などと考えてしまう私はおそらく、まったくこの仕事に向いていない。

そんな、個人的な「明日はどっちだ?」みたいな振り返りでした。こんなのは、明日はないと思います。ちゃんとした討議が重ねられることでしょう。

まぁとにかく、こんな人間ですよ、という長い自己紹介でした。

明日はよろしくお願いします。

※ちなみに※
そもそも吃音だし、普通の日本語学校で働く先生にはなれないと思っています。ただ、知らない言語と触れるときの「学び合う」感じは捨てがたい。むしろ、その体験を共有したい。色んな人に味わってほしい。というわけで、自分の興味は、研究の領域に近いのだと思います。



もしもサポートいただけたら、作品づくり・研究のために使います。 よろしくお願いいたします。