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横浜の沖縄・南米タウン、川崎のコリアンタウン、〜京浜工業地帯と浅野総一郎〜

横浜市鶴見区には「鶴見沖縄県人会館」があり、鶴見区と隣り合う川崎市川崎区には「財団法人神奈川県沖縄協会」があります。

鶴見沖縄県人会館がある仲通浜町線を西に行くと、ブラジルやペルーの看板を掲げる食材店・レストランが数件ありますが、これは日本から南米に渡った人たちが戻ってきて居住したエリアです。沖縄から鶴見に来て南米に行って戻ってきたパターンや、沖縄から南米に行った後に鶴見に来たパターンなどがあるようです。

どちらにしろ、沖縄に出自を持つ人が多いようです。

また、川崎区のセメント通りはコリアンタウンの門が立っています。

鶴見にはフィリピン食材店、川崎にはベトナム食材店もあります。

これは、渋沢栄一の支援で始まった浅野財閥の総帥で、「京浜工業地帯の父」、「日本の臨海工業地帯開発の父」、「セメント王」とも言われた浅野総一郎が、鶴見区・川崎区に京浜工業地帯を作り、各地から労働者が集まったことに背景があるようです。

地名には浅野総一郎や、浅野総一郎を支援した安田善次郎、大川平三郎などに由来するものが多くあります。

先週の投稿で、私の神谷姓は沖縄の津堅島がルーツと書きましたが、私の曽祖父は沖縄から京浜工業地帯の川崎区にやってきています。

本記事では、沖縄人コミュニティーがある京浜工業地帯の歴史と地名について見ていきます。

板垣退助らの京浜競馬倶楽部(現・川崎競馬場)

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川崎区の沖縄人コミュニティーの形成は、1906年に板垣退助らによって京浜競馬倶楽部が競馬を開催したことにはじまります。

場所は現在の川崎競馬場です。

1908年に政府が馬券発売禁止令を公布して馬券の発売を禁止したため、競馬を開催できなくなってしまいます。
実質的な開催日数はわずか15日だけであったと言われています。

富士瓦斯紡績の工場と沖縄の女子工員

競馬場の跡地には当時の川崎町長によって富士瓦斯紡績(現・富士紡ホールディングス)の工場が誘致され、1915年に操業を開始します。

そこに全国各地から女子工員が招かれて来ました。
その女子工員の中で、最も数の多かったのが、沖縄から来た人達でした。
その後、次第に沖縄の女子工員の親類縁者が移住して来ました。

神奈川県沖縄協会・沖縄料理店

川崎競馬場の南隣にある川崎競輪場。その東側に財団法人神奈川県沖縄協会(川崎沖縄労働文化会館)があります。

川崎沖縄県人会京浜青少年会館跡地には、この財団法人が運営するワンルームマンション「オリオンスター」が建っています。

川崎駅から神奈川県沖縄協会の事務所があるあたりにかけて、沖縄料理店が数軒あります。

セメント通りのコリアンタウン

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川崎区浜町のセメント通りは大正から戦時中にかけて朝鮮半島から川崎に移り住んだ人たちの居住エリアです。

最盛期はセメント通りに100軒ほどの店が軒を連ねていたそうですが、1973年をピークに、30年間で10万人もの人口が減少し、現在は数軒の韓国焼肉のお店がある程度です。

1992年に「コリアタウン実現を目指す川崎焼肉料飲業者の会」が発足し、セメント通りの両端にコリアンタウンの門を作っています。

同じ浜町には「在日本朝鮮人総聨合会 川崎支部」があります。
隣町の川崎区桜本には「川崎朝鮮初級学校」があります。

セメント通りの由来は浅野セメント

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このセメント通りは「浅野セメント」の工場に通じていたことに由来する名前です。

浅野セメントは浅野財閥の総帥・浅野総一郎が創業した財閥に中核企業の一つ。

横浜ガス局からコークスを買い取り、官営工場「深川セメント製造所」に売って、大きく利益をあげた浅野総一郎を見込んだ渋沢栄一の支援によって、1884年(明治17年)に深川セメント製造所を好条件で払い下げを受けて、創業したのが浅野セメントで、後の日本セメント、現在の太平洋セメントです。

セメント通りの端に当たる産業道路から海側は、浅野総一郎が埋め立てを完成させ「浅野町」と命名。
その先には「浅野運河」があります。

京浜工業地帯の始まり「鶴見埋立組合(現・東亜建設工業)」

1886年(明治19年)、浅野総一郎は渋沢栄一、栄一の従兄・渋沢喜作らと石炭を輸送する浅野廻漕店を設立し、海運業に進出します。

1896年(明治29年)、浅野総一郎・渋沢栄一・安田善次郎(安田財閥)・福澤桃介(福沢諭吉の娘と結婚・名古屋電灯社長・大同電力社長)・大倉喜八郎(大倉財閥)・6代目森村市左衛門(森村財閥)らからの出資を受けて、東洋汽船株式会社を設立し、海運業を拡大します。

同年1896年に浅野総一郎は欧米視察に行き、港湾開発の発展を目の当たりにし、横浜港に戻り、その旧態依然とした様子から、日本初の臨海工業地帯を作ることを計画します。

浅野総一郎と同じ富山出身の安田善次郎が計画への支援を表明。

1908年に浅野総一郎は、鶴見・川崎地区の海面埋め立てを目的とした鶴見埋立組合(現・東亜建設工業)を設立します。
東亜建設工業の社章は三羽の鶴をデザイン化したもので、これは創業の鶴見と、設立に関わった浅野総一郎・安田善次郎・渋沢栄一の3名を表したものです。

鶴見埋立組合が鶴見埋築株式会社となり、社長は浅野総一郎、専務は大川平三郎(渋沢財閥)と白石元治郎(浅野財閥)、取締役は安田善三郎(安田財閥)・安倍幸兵衛(横浜の貿易商)・太田清蔵(徴兵保険専務)・八十島親徳(渋沢財閥)、監査役は渡辺福三郎(横浜の貿易商)・尾高次郎(渋沢財閥)・山本安三郎(徳川家家令)。

埋立地は、浅野総一郎から浅野町、安田善次郎から安善町、白石元治郎から白石町、大川平三郎から大川町、浅野総一郎の家紋の扇から扇町と末広町(扇は末広がり)と名付けられます。

日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)を設立

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1912年、現在の浜川崎駅の南、南渡田に、日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)が設立されます。

八幡製鉄所出身の今泉嘉一郎が全て輸入に頼っていた民需用鋼管を国産化することを模索していました。
そこに、帝国大学時代の学友でボート仲間で浅野財閥の白石元治郎が支援しました。

今泉嘉一郎は「日本の近代製鉄の父」「近代産業の父」と称されています。

白石元治郎は帝国大学法科大学を卒業後、浅野商店(浅野財閥)に入社し、浅野総一郎の秘書を務めます。
浅野総一郎の次女と結婚しています。

川崎の「鋼管通り」は日本鋼管に通ずる道路だったことから。
現在、鋼管通り沿いに「日本鋼管病院」があります。

浅野造船所(現・ジャパン マリンユナイテッド)を設立

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1916年(大正5年)、浅野総一郎は浅野造船所を、臨海部の埋立地に設立しています。
現在の「浅野駅」は、浅野造船所の最寄り駅でした。

浅野製鉄(現・JFEスチール)を設立

1918年に、浅野造船所の隣に、浅野製鉄を設立。

浅野造船所は、後に日本鋼管、ユニーバサル造船、現在はジャパンマリンユナイテッドになっています。

淺野綜合中學校(現・浅野中学校・高等学校)を設立

1920年、欧米視察から、当時の日本の教育が教養主義に偏っているのを憂い、淺野綜合中學校を設立。

1929年、浅野工学専門学校が分離、独立しています。

教養と高度な職業能力を併せ持ち、リーダーシップを発揮しうる人材を浅野セメント、日本鋼管などの浅野財閥各社をはじめとする企業へ供給するということを意図。

鶴見臨港鉄道(現・JR東日本 鶴見線)を開業

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1924年、東京湾埋立株式会社(現・東亜建設工業)の子会社として、鶴見臨港鉄道が設立されます。

1926年3月10日、貨物線として弁天橋駅・浅野駅・安善町駅・武蔵白石駅(初代)・大川駅・浜川崎駅が開業します。
1926年4月10日、石油支線分岐点 - 石油駅間が開業。

浅野駅は最寄りの「浅野造船」に由来。
安善町駅は「安田 善次郎」から命名した埋立地「安善町」に由来。

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武蔵白石駅は「白石元治郎(浅野総一郎の娘婿で日本鋼管の初代社長)」から命名した「白石町」に由来。
大川駅は「大川 平三郎(日本の製紙王)」から命名した「大川町」に由来。
弁天橋駅は駅近くに漁師の守護神「弁天神」が奉られている池があり、その池に赤い橋が架かっていたことから。

浜川崎駅は、1918年に国鉄東海道本貨物支線の浜川崎駅に由来しています。
浜川崎の名は埋め立てが始まる前は、川崎の浜辺であったことから。

石油駅(後の浜安善駅)は駅近くの昭和シェル石油に由来。

1928年、扇町駅が開業。地名の扇町に由来。扇町町の由来は、浅野家の家紋の扇に因みます。

1930年、国道駅が開業。鶴見線と京浜国道との交点にあることから命名。

1931年、昭和駅が開業。昭和石油(現:昭和シェル石油)や昭和肥料(現:昭和電工)に由来。

1932年、新芝浦駅が開業。芝浦製作所(現在の東芝)の最寄り駅として開設されたことに由来。駅名に「新」がついたのは、当時東京都に芝浦駅(貨物駅・現在は廃止)があったため。

1936年、鶴見小野駅が開業。所在地である小野町から。小野町の名前の由来は江戸時代末期より明治初期にかけて地元の名主である小野高義・鱗之助親子がこの一帯を埋め立てて新田開発を行い、小野新田と名付けられたことに由来。

1940年、海芝浦駅が開業。「芝浦製作所」とこの駅が海に接していることから名づけられた。

製紙王と呼ばれた大川平三郎

大川平三郎は国内市場の45%を握り、製紙王と呼ばれました。

大川平三郎は渋沢栄一が中心となり創立した抄紙会社(後の王子製紙(初代))に16歳で入社。
日本人で最初の製紙技師となります。
会社不振の原因を分析した建白書を提出し、それが会社に認められ、20歳で社命でアメリカに渡り、シャワンガム社・モンテギュー社などで製紙技術を修得します。

1年半の留学を終え帰国した大川は、パルプの原料を藁に替えるコストダウンを実行、21歳にして会社の副支配人に。
1884年(明治17年)、化学パルプの技術革新が起こった欧州に調査に赴く。
帰国後の1890年(明治23年)、試行錯誤の末、日本で最初の亜硫酸法による木材パルプの製造に成功、さらに木材チップを煮る釜を改良して「大川式ダイゼスター」を考案。

1893年(明治26年)に技術部門を担当する専務取締役に就任。
1898年(明治31年)三井財閥が経営に参画したことから渋沢栄一が会長を退任、大川も王子製紙を去ります。
大川は、彼と行動を共にした技術者・職工らと四日市製紙(三重県)に移籍。
1901年(明治34年)に上海の製紙会社に招聘。
1903年(明治36年)に帰国した後は九州製紙(熊本県)の社長に就任。
1906年(明治39年)中央製紙(岐阜県)を設立。
1908年(明治41年)木曽興業(長野県)を設立。
1908年(明治41年)四日市製紙の役員に復帰。
1909年(明治42年)には中之島製紙(大阪府)の会長にも就任
1914年(大正3年)樺太工業を設立、
1918年(大正7年)四日市製紙の社長に就任
1919年(大正8年)には大手製紙会社富士製紙の社長に就任

この結果大川が経営する製紙会社は合計で国内市場の45%を握ります。

1933年(昭和8年)に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が合併し大王子製紙が発足、同社の相談役に就任。

浅野セメント、札幌ビール、東洋汽船、日本鋼管、鶴見臨港鉄道(JR鶴見線)など80余の企業経営に携わり「大川財閥」を作り上げました。

大川平三郎の妻は渋沢栄一の娘です。

南武鉄道(現・JR東日本 南武線、現・太平洋不動産)を開業

1930年に、浅野財閥は南武鉄道の貨物駅として、新浜川崎駅、浜川崎駅を開業しています。
南武鉄道は、1919年の多摩川砂利鉄道敷設免許申請書を出願を発端に設立され、1923年に浅野泰治郎(浅野総一郎の長男・浅野財閥二代目総帥、妻は板垣退助の四女)が筆頭株主になり、浅野財閥入りしています。

末広町の隣接地域に沖縄タウンが形成

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埋め立てで作られた末広町は浅野家の家紋の扇が末広がりなことから、末広町と命名されていますが、浅野造船や浅野製鉄、東芝などが作られました。

現在は末広町の北隣は弁天町、さらに北隣が仲通り、そのさらに北が潮田町です。

沖縄タウンが形成されているのが仲通りです。

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以前は潮田町までも含めて末広町と言われたそうです。

横浜市鶴見区の仲通浜町線には「鶴見沖縄県人会館」、「おきなわ物産センター」があり、仲通浜町線と交差するゴム通りには「沖縄料理八ちゃん」、栄町汐入町公園通りには「沖縄そば うちなーすばヤージ小」などがあり、沖縄タウンを形成しています。

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仲通浜町線の西側には、ブラジル・南米・フィリピンの食材店「Yuri Shop」

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ブラジル料理の「パライゾ・ブラジル」
ペルー料理店「エル・パイサノ」
「沖縄料理×中南米料理 エル・ボスケ」

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仲通浜町線と交差する本町通りにはペルー料理店「KOKY'S PERUVIAN RESTAURANT」などの南米料理を出すお店が点在して南米タウンを形成しています。

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南米から渡ってきた労働者が住んだというよりも、日本から南米に渡った人たちの一部が戻ってきた場所が南米タウンのようです。

南米に渡った人の中に沖縄の人も多かったようですので、沖縄に出自を持つ人が、京浜工業地帯に多く働いていたのでしょう。

ゴム通りは横浜ゴムに由来

沖縄タウンの東側にあるゴム通りは、横浜ゴムの工場があったことに由来します。

川崎富士見球技場

財団法人神奈川県沖縄協会の近くにある、川崎富士見球技場(富士通スタジアム川崎)は、1952年に川崎市と日本鋼管、東芝、味の素、日本コロムビア、昭和電工、いすゞ自動車などの主要企業が共同出資し「株式会社川崎スタジアム」が設立され、川崎市富士見の富士見公園内に川崎球場が竣工したのが始まりです。

その後、大洋ホエールズやロッテオリオンズが本拠とし、現在は、富士通がネーミングライセンスを購入し、富士通スタジアム川崎となっています。

總持寺に浅野総一郎の墓

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浅野総一郎の墓は、鶴見駅近くの曹洞宗の大本山「總持寺」にあります。
總持寺は永平寺と並ぶ大本山で、広大な敷地に大きな建造物が立ち並んでいます。

参照


川崎市教育委員会「沖縄芸能」
川崎沖縄県人会「川崎沖縄県人会のあゆみ」
ウィキペディア「富士紡ホールディングス」
川崎競馬場
川崎球場
川崎富士見球技場
かわさき区の宝物シート 「コリアタウン」
在日本朝鮮人総聯合会
川崎朝鮮初級学校
東亜建設工業「東亜の歩み」
東亜建設工業
浅野埋立地を歩く
浅野運河
鶴見臨港鉄道
鶴見線
扇町駅 (神奈川県)
浅野財閥
浅野総一郎
東洋汽船
渋沢成一郎
福澤桃介
京急3線区間探訪 海岸電気軌道(前段)と京急大師線、鶴見臨港鉄道
浅野造船所
鶴見臨港鉄道
安田善次郎
大川平三郎
白石元治郎
今泉嘉一郎
JFEエンジニアリング株式会社「沿革」
JFEエンジニアリング
JFEスチール
ジャパン マリンユナイテッド
末広町 (横浜市鶴見区)
浅野泰治郎
浅野中学校・高等学校
浅野工学専門学校
太平洋不動産
南武線
戦時買収私鉄
總持寺

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