ライムスターと俺 その1

ライムスターを一番最初に聞いたのは、Crazy-AのアルバムのPleaseに収録された、ポッセカット Watch meでのごく短いバース。この曲は自分が日本語ラップにはまるきっかけとなった曲である。Crazy-Aが主役の曲ではあるが、面白い事に客演の方がはるかにスキルが上であり、このアルバムをステップにしてタワーレコードアメ村店4階で日本語ラップを片っ端から買うことになった。

94年当時ライムスターは俺に言わせりゃというファーストアルバムを出していた。ライムスターファンなら良く知るところではあるが、彼らはこのファーストアルバムの曲をセカンドアルバムを出して以降ライブで一度もやっていないという。納得行ってないとかそんな理由だったとかだったと思うが、いえいえ当時の日本語ラップ技術としてはキレキレなわけで、当然古いヘッズにはクラシックなのである。確かにリリックの内容は後にB-Boyイズムで定義したB-BOYとは程遠いような、うだつの上がらない男の悲哀をテーマにしたものが多いのも事実であり、ややネイティブタン的な普通の大学生の日常をうたうようなアプローチだった。しかしその等身大感は自分的には内容的にも非常に良かったのである。時にブッダブランドはライムスターのこのアルバムの内容をディスっている。(チビリチョットチェケダウト)なんもやるきしねえなんてえばるなバカ。とニップス。少し飛ぶが、ライムスターはエゴトピアを出してすぐにプラスアルファというEPを出し、その中のでそこのけハーコー気取りのボンボン(報復95)はブッダに対するアンサーだと当時、ネット情報もない中、勝手に鵜呑みにしてカッケーと滾ったもんである。
ちなみにこの二曲はライブ版がカッコいいです。ハイ。https://www.youtube.com/watch?v=he5W-ya7yxQ

https://www.youtube.com/watch?v=M493ixHpEEk


でクラシックであるセカンドのエゴトピアが出てからはサードのリスペクトまでは4年と結構間が開くのであるが客演の嵐とシングルリリースと飽きることはなかたった。また、ZEEBRAとの末期症状とかアイスピック、俺の流儀(D-T入れて失敗した)など、マミーDの露出が目立った時期でもある。そしてこのときに私の日本語ラップライブ初体験でDとZにやられてしまった話は前のNote参照されたし。サンピンキャンプのビデオとかMTVジャムズで公開された耳を貸すべきのPV、あと当時、雷とは違う感じ日本人のラッパー然とした自然な立ち居振る舞いや発言に、こころの中で勝手に兄貴と呼ぶくらい心酔していた。96年8月のクラブダウンでの第一回キングオブステージはNZでの合宿でいけなかったが、相方がMDで録音してくれてて、それを聞いて一人で上がりまくった。SP1200の生打ちとかしてて、その上でのシンプルなラップ表現のカッコよさに自分もマイク握る決心をしたのである。

前にも書いたがその年の年末にラッパーデビューを果たすのであるが、その当時のライブを相方が録音してて、聞き直したら、もうまんまマミーDのパクリフローであった。その後も大阪にライムスターがライブにしにやってくるたびにライブ参加。

シローを最初にみたのは、たしかパナソニックのショックウェーブのプロモイベントを日曜日の昼間にドンフレックスでやったときだったと思う。長蛇の列の横をシローがあの目立つハゲとメガネで一目瞭然、以外とデカイタッパにも驚いた。列にならんでた大阪ヘッズはシローを見て明らかにビビッていた。(現在はラジオDJなどでご活躍されてて昔から気さくな性格であったことはわかるのであるが、当時はMTVで見るあの感じとかなのでビビッてた)。当日は確かシャカゾンビも出てた。このイベントは東京でもやったそうで、共に入場料は無料。カンパ箱みたいなのがおいてあり、東京は数万円入っていたのに対して、大阪は見事にゼロであったということで県民性を説明する出来事として現在もシしばしばウタさんはこのライブでの件をラジオで語られている。

その後なんどかライムスターとしてのライブを大阪でみたが、ラッパーをあきらめ留学してからは専らCDで鑑賞、一度キングオブステージを無料ネット配信した2001年は留学先の深圳で、死ぬほど遅いネット環境で紙芝居みたいなライブと途切れ途切れの音であるが、ステージの熱さと自分が今やっていることは絶対に間違っていないという思いに勇気付けられ、涙を流したのを覚えている。かくして、ライムスターは自分のオールタイムメンターになっていき、2008年やっと奈良でキングオブステージ見た。

つづく

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