【雑感】アノミー・アズ・ナンバーワン

 本稿の主題はAIであり、文学であり、その混淆であり、そしてその中枢にはこの芥川賞受賞をめぐる一連の「反応」があるが、しかし情けないことに、僕は『東京都同情塔』も、九段理江の作品も読んだことがない。フォロワーがずっと勧めているので読まねば読まねば、と思いつつ、気づけばこんなところまで来てしまった。

 そういうわけで、本稿における論理的根拠の多くは、先に引用した荒木氏のポストに依っている。それが真実であるかどうか、僕にはわからない。けれど本稿は、さしあたりそれを真実として、あらゆる対立の前提として置くことで開始されることになる。

 生成AIの代表格、ChatGPTが登場してからそろそろ一年が経つだろうか? 国内企業のいくつかは企業向けAIサービスのパッケージを開発したというニュースをどこかで聞いたような気がするが、それはいつのことだったか。つい最近のような気もするし、一年前のような気もする。いや、そもそもそんなニュースは存在するのだろうか。なにせ企業-企業の問題というのは常に隠匿された領域であるがゆえに、我々はそれを体感することも、把握することもかなわない。

 AIサービスをめぐっては、この「隠匿」が常に問題となり続けてきた。否、それは正しくないのだろうか。どう考えても一番の問題であるはずのその点は、SNSにおいては意図的に語り落とされているような感があるからだ。

 AIパッケージを提供しているという会社のことを、それを導入している(らしき)局面を、もっと突き詰めて言えば、GPT4(一番新しいジェネレーティヴシステムだっけ?)のシステムの内実さえも、僕らは知り得ない(=公開されていない/保護されている)。そうした世界に、僕らは生きてしまっている。どうしようもなく。にも関わらず、その点は意図的に無視されてきたのではないか。

 どうもSNSのみならず、物的世界(シリコンバレー周辺)においても、AIをめぐるイデオロギーの対立は過激なかたちを取っているという。すこし前に話題になっていた効果的利他主義と効果的加速主義の対立がそれだ(しかし、今になってみてもやっぱりあまりに現実味を欠いた図式化にしか思えない。これは本当に現実なのか)。

 AIをめぐる対立の激しさ。しかしそれは、今日においてしばしば内実を欠いたかたちで進行してはいないだろうか。僕は半年ほど前からそうした箸にも棒にもかからないブログを書き続けてきたが、今に至ってますますそうした傾向は強まっているように感じる。

 ──ここで、ようやく冒頭に記した主題が立ち現れてくる。

 この芥川賞受賞(インタビュー)に端を発したAIをめぐる対立──否、恐慌《アノミー》。そこに内実はあるのだろうか。そこに根拠はあるのだろうか。「AIが」「使用された」という言葉さえ、それが指し示す現実さえ、正視にたえうる明晰さを持ちえないところに、果たして根拠なるものは生成されうるのだろうか。疑問は深い。しかしそれは、恐慌の前では何の意味ももたないかに見える。

(書きかけ)

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