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創氏改名と姓名判断~果たしてそれは差別だったのか?「名前を奪われた」の真実

「姓」と「氏」

 現在の韓国では、「創氏改名」は日帝の悪政の筆頭に挙げられることが多い。曰く「先祖の名前を奪われ、日本式の名前を強要された」「日帝は民族抹殺の手始めとして朝鮮民族から名前を奪った」と。日本人の中にも、創氏改名を日本の差別政策のひとつだったと信じ込んでいる者も少なくない。
 しかし、もし本当に差別が目的なら、ナチスがユダヤ人の胸に黄色い六芒星の印をつけることを義務付けたように、むしろ識別を強化し人種隔離の方向に向かうのが自然で、日本人とまぎらわしい名前に改名させるというのもおかしな話ではないか。
 創氏改名は昭和15年に実施されたが、朝鮮人に日本式の名前を許可することに関しては、実は国内でも慎重論があったという。それというのも、日本人式の名前を勝手に名乗って商売する朝鮮人も少なくなく、それゆえのトラブルも多かったからだ。昭和12年8月、婦女子をたぶらかし金品を貢がせていたかどで御用になった、東京鎌田のダンス教師・金田愛次郎こと朴應哲(パク・ウンチョル)などその最たるものだろう。
 それとは逆に、帝国軍人だった洪思翊(こう・しよく/ホン・サイク)や白善燁(はく・ぜんよう/ベク・ソニョル)、内地で衆議院議員を務めた朴春琴(ぼく・しゅんきん/パク・チュングム)、あるいは本書別項に登場するダンサーの崔承喜、歌手の王壽福のように、創氏改名令後も朝鮮名で通した朝鮮人も大勢いるのである。この事実をどう見る。
これらからもわかるように創氏改名は強制ではなく任意だったのだ。いや、正確にいえば「創氏」は強制(義務)であり、改名は自由だったということになる。これには少し説明が要るかもしれない。

大邱の広報。「氏ト姓ヲ混同スル向ガアルヤウデスガ氏ハ家ノ称号デアリ姓ハ男系ノ血統ヲ表スモノデ両者ノ性質ハ全然異ッテ居リマス」。ハングルのルビつきで噛んで含むように「創氏」を説明している。

 朝鮮は儒教的家父長制度からくる血統主義の考え方から、結婚しても夫婦は別姓であり、二世代が同居する場合、ひとつの家に、夫、妻、姑の三つの「姓」が存在することになる。それでは何かと不自由もあるので、新たに家族(世帯)を単位とした「氏」(ファミリーネーム)を作って登録しなさいというのが、「創氏」である。登録の際に、ファーストネームの方も日本風の名前に変えていいですよ、が「改名」だ(※したがって扉画像にある「改氏改名」は誤解を招く表現である)。なお、登録しない場合、金なり朴なり、家長の「姓」がそのまま「氏」になった。また改名しても、もとの姓は戸籍に残ったし、日常的にそちらを使うことに何ら法的罰則はなかった。これのどこが強制なのだろう。ちなみに、創氏は無料だが、改名の手続きには50銭の印紙代がかかった。それでも全朝鮮人の80パーセントの人間が日本風の名前に改名している。逆にいえば、20パーセントの朝鮮人が改名せず、学校や職場で堂々と朝鮮名を名乗っていたということになる。また改名後も日常生活では朝鮮名を使う人も多かった。
 
族譜は燃やされる? 誤解

 一方で、「(創氏改名により)族譜を焼き捨てなくてはならない」「本貫が否定される」といった流言が伝えられ、それを信じ悲観のあまり自殺した者もいたのも確かである。総督府におもねるばかり半ば強引に改名を勧めた面長(=村長。ほとんどが朝鮮人)もいたかもしれない。そもそも創氏改名が内鮮一体、皇民化の強化という側面があったことは否めないだろう。しかし、ひとつ言えるのは、日本政府も朝鮮総督府もためになれと思って踏み切ったことだった。隔離政策よりも一視同仁の同化政策をより人道的な統治と見たのだ。これは間違いではなかったと思う。
 ちなみに「族譜」とは家系図に先祖の業績や家訓などを書き添えた文書のことで、長大なものでは百科全集ほどになるという。現在でも韓国の家庭(本家)ではみなこれを大切に保管している。「族譜のないやつ」(チョッポ・オプヌン・ノム)といえば、「馬の骨」を数段強烈にした罵倒語だ。「本貫」は男系姓宗族の発祥の地を意味し、あるいは同一本貫を祖とする宗族そのものを指す。たとえば、金海金氏といえば、金海(慶州南道)を発祥の地とした金さん一族ということになる。族譜も本貫も、朝鮮=韓国人にとって欠くべかざるものとされている。ちなみに北朝鮮では、社会主義の建前から、族譜、本貫は形骸化されているという。
 総督府も「族譜を燃やす」などの流言には苦慮したようで、大邱市などは漢字かな混じり、ハングル・ルビ入りの法院公告まで発行し、説明にこれ努めていた。「氏ヲ設定スルト従来ノ姓ガ無クナルト云ウ誤解ガアルヤウデスガ氏設定後ニ於イテモ姓及本貫ハ其儘戸籍ニ存置サレマスカラ心配アリマセン」とある。また、各自治体に相談所を設けて、地域住民の質問に応えていた。相談所では、新制度の説明、手続きのヘルプの他、具体的にどのような名前にしたらいいのかといった個別の相談にも専門家を置き対応していたたようだ。今でいう、アドバイザー、コンシェルジェといったところだろう。

創氏相談所の看板。
京城(現ソウル)の創氏相談所に列をなす人々。この写真は当時の絵葉書にもなった。

創氏改名を高々と宣言した「朝鮮近代文学の父」

 新聞広告に目を投じてみると目につくのは、創氏改名に当て込んだ姓名判断の広告である。どうせ日本式の名前を作るなら運勢的にもよい名前を、というわけである。
 韓国の人は伝統的に風水や占いが好きで、最近でも若い女性の間で姓名判断による改名が静かなブームだといわれているから、彼らがいうほど「先祖から受け継ぐ名前」に頓着はないようだ。もっとも今も族譜には女子の名前は記載されず、配偶者(妻)は「金氏」「朴氏」といった姓と本貫のみが記されるだけで、李朝時代にいたっては女子に正式な名前がつかぬことも多かったから、こと女子に関しては改名への抵抗も少なかったのだろう。ちなみに、傾城の悪女として名高い閔妃にしても、彼女の本名を記録するものは残っていない。閔妃とは「閔氏出身の妃」という程度の便宜上の呼称である。日本式の戸籍の導入と創氏の制度は、それまで名前を持たなかった朝鮮の女性に「名前」と「家族の一員」という地位を与えたという意味で、その意義は正当に評価されるべきだろう。
 年配の韓国・朝鮮の女性には、明子(ミョンジャ)、順子(スンジャ)、秀子(スジャ)という名をもつ人がいるが、いうまでもなく、これは、日本式の名前である。
 名前には流行りすたりがある。日本でも女子の○○子は、現在では、保守的な名前の部類に入るだろう。ジョージ川口とかフランク永井といった二世風の芸名など、今ではコメディアンくあいしか使わない。
 広告にある「熊崎式姓名学」とは、元新聞記者で熊崎式速記術の発案者である熊崎健翁が長年の易学の研究の末、昭和3年(1928年)に発表した姓名判断学で、熊崎はその分野の開祖にして伝道者である。『熊崎式・赤ちゃんの名づけ方』は現在も続く超ロングセラーだ。

「熊崎式姓名学・創氏、改名、比較研究されよ」(毎日新報1940年3月16日)。熊崎健翁の高弟・日高偉厳という人物については残念ながらまったく不明。
子孫繁栄ノ為メ。儒教社会ではこれが大事。
「創氏改名!日本姓名学館」(右上)。「選名料一名一円五十銭」とある。ちなみに改名の手数料は一人(のちに一戸)50銭だった。
上の広告のハングル版。このにわか姓名判断ブームに、創氏改名のイベント性を見るような思いもあるのだが。「皇紀二千六百年!玆(ルビ※ここ)に画期的創氏改名令が実施されました! 一億同胞の待ちに待ちたる此の創氏、皆様はこの意義ある創氏改名を如何に選びましたか?」

創氏改名を高々と宣言した「朝鮮近代文学の父」

 改名後、お披露目の意味で個人広告を出す人もいた。崔演國(チェ・ヨングク)は「朝日」を創氏、これを機に一家そろって改名した旨を釜山日報紙上で報告している。崔は慶南評議員、慶南銀行幹部などを歴任、改名時は慶尚南道議員にあった。

「今般朝鮮民事令の改正に依り左記の通り創氏改名仕候間此段御通知申上候」(釜山日報1940年3月5日)。崔演國は代々地主の家系にある特権階級だったが、当時の金で1千円を投じ朝鮮ハンセン病予防協会基金を設立するなど博愛の人でもあった。


卓同朝(タク・ドジョ)は実業家で政治家、教育者。光山文吉、光山卓一と二度改名している。皇民を自任し毎朝、宮城遥拝を欠かさず、大東亜戦争時は志願兵を募る運動の先頭に立った。「各地に散在している卓氏に光山姓を名乗るよう呼び掛けてゐる」(毎日新報1940年3月2日)

 インテリ層で創氏改名を宣言した人物では、「朝鮮近代文学の父」といわれる作家で思想家の李光洙(り・こうしゅ/イ・グァンス)が筆頭で挙げられる。
李は早稲田大学在学中、「二・八独立宣言」を起草し、その後、上海臨時政府の設立に身を投じるなど独立運動の先端的な闘士だったが、「朝鮮の亡国の原因は朝鮮自身の怠惰性にある」として、しだいに親日家への転向を鮮明にしていく。それは「抵抗する力のない者が抵抗しても悪戯に血が流れるだけ。むしろ積極的に日本に同化・協力することで差別をなくし、朝鮮民族の地位を固めることがまず先決」という考えによるものだった。その李が昭和14年12月、京城日報紙上において、「香山」を創氏、自らを香山光太郎と改名することを宣言したのである。

李光洙。朝鮮の文学者、思想家。「朝鮮近代文学の祖」とも言われる。本貫は全州李氏。号は「春園」。代表作は『無情』。朝鮮戦争のとき拉北され、1950年に58歳で死亡したと伝わっている。
李氏の創氏改名宣言を伝える記事(京城日報1939年12月12日)。


 李のこの宣言に対する朝鮮人の反応はまちまちで、やはり一部インテリ層に反発もあったようだ。それに対して、李はこう回答している。
《内鮮一体を国家が朝鮮人に許した。故に、内鮮一体運動を行わなければならないのは、 朝鮮人自身である。朝鮮人が内地人と差別がなくなる以外に、何を望むことがあろうか。 (略)。姓名三字をなおすのも、その努力の中の一つならば、なんの未練も ない。喜ぶべきことではないか。私はこのような信念で、香山という氏を創設したのである。(略)われわれの従来の姓名は、支那を崇拝した先祖の遺物である。地名や人名を支那式に統一したのは、わずか六、七百年前のことだ。すでにわれわれは日本帝国の臣民である。支那人と混同される姓名を持つよりも日本人と混同される氏名を持つ方が、より自然だと信じる。》(『創氏と私』毎日新報・昭和15年2月20日付)
 創氏改名は差別の制度ではなく、朝鮮人にとって差別をなくす手段であると、この士は 道破しているのである。

初出・『こんなに明るかった朝鮮支配』(ビジネス社)


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