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人はそれを「ニャンニャン写真」と呼んだ

ニャンニャン写真の歴史は写真週刊誌とともにあった

 1983年(昭和58年)というから、今から40年i以上前になるのか、いやあ月日の流れるのは早い。この年最大の芸能スキャンダルといえば、なんといっても高部知子のニャンニャン写真事件だった。
「ベッドで二人仲良くニャンニャンしちゃった後一服」と題した一枚の写真が写真週刊誌『FOCUS』(新潮社)の見開きを飾ったのである。『欽どこ』のわらべ三姉妹としてお茶の間に人気のあった高部知子(当時15才)が、ベッドに横たわり布団から裸の肩を見せてリラックスした表情で煙草をくゆらせているというショットだった。未成年者、それも清純派として知られた少女タレントの喫煙というだけでも大問題なのに、写真は明らかにセックスのあとを連想させずにはいられなかった。はたして、この写真は、高部と以前交際していた少年によって編集部にもちこまれたものだったという。
 それにしても、「ニャンニャンしちゃった」というタイトルセンスがよくも悪くも秀逸だったと思う。ニャンニャンはわらべのヒット曲『めだかの兄妹』の一節からだが、これ以降、(特に若い女の子との)性行為を「ニャンニャン」と呼び、「ニャンニャンする」は流行語にもなった。また、性交の前後を連想させるタレントの一連の流出写真は「ニャンニャン写真」という呼称で認知されることになるのである。 高部のニャンニャン写真を掲載した『FOCUS』は、一気に部数を伸ばし、『FRIDAY』(講談社)、『FLASH』(光文社)、『Emma』(文藝春秋社)などの後発誌を生む。各誌、ニャンニャン写真の他、タレントの盗撮写真、エログロ写真などで読者ののぞき見趣味を煽ることで部数を拡大し、覇を争うことになる。

にゃんにゃんにゃんにゃん

 さらにつけ加えるなら、「ニャンニャン」は、初体験世代の女子高生を集めた人気バラエティ番組『夕やけニャンニャン』の番組タイトルの語源にもなったということでも特筆に値するだろう。となれば、高部知子のニャンニャン写真なかりせば、おニャン子クラブも工藤静香も渡辺満里奈もなく、生稲晃子が議員になることもなかったかもしれないのだ。げに、ニャンニャン写真は偉大なり!

▲珍品!北朝鮮番『めだかの兄妹』。

ニャンニャンの呪い

 それはともかく、「ニャンニャンした」友部が払った代償は大きかった。『欽どこ』を無期限謹慎処分となり、出演が決まっていた映画、ドラマはすべて降板、CMは打ち切りとなり、通っていた堀越学園高等部も停学となった。育ての親である萩本欽一は、『欽どこ』に高部を電話出演で謝罪させるなど、「禊ぎ」期間を設けて、いずれ復帰させる腹積もりだったようだが、写真をもちこんだ元交際相手の少年が、騒ぎの大きさにショックを受けてか、自殺、これが新たなスキャンダルとなって、本格復帰の計画はとん挫することになる。少年は高部ファンの暴走族メンバーによって脅しを受けていたという、まことしやかな噂もあった。
「ニャンニャン」の呪いは、高部だけでなく、わらべの他のメンバーにも降りかかった。1984年4月、わらべのかなえ役の倉沢淳美が札幌でのサイン&握手会の会場で、並んでいた若い男に突然、刃物で腕を斬りつけられるという事件が起こったのだ。犯人は26歳の工員で、高部知子の大ファン。倉沢が番組の中で「のぞみ(高部の役名)のぶんまで頑張る」といったことに、「生意気だ」「高部の不幸にかこつけて自分だけ目立とうとしている」と思い、怒りにかられて犯行に及んだと供述している。

カバラ生命の樹

 しかし、この犯行にはもうひとつの奇怪な動機があったのである。男は大のオカルト・マニアで、当時特に凝っていたのがカバラ占術。カバラとはユダヤ教の神秘主義、ユダヤ密教をいう、むろん彼がそんな秘儀を会得しているわけはなく、雑誌で読みかじった程度の知識であろうが。職場でも他人と交わることがほとんどなく、たまたま雑談の輪に入ると「俺は人を呪い殺せるんだ」などと言って、同僚から気味悪がられていたらしい。男によれば、カバラ占術にとって一番重要なのは生年月日なのだそうで、高部のスキャンダルも彼女の誕生日から予測できたと、女性週刊誌に投書していたことも判明している。

「微笑」84年5月12日号

 さて、倉沢淳美だが、彼女のソロ・デビュー曲『プロフィール』はその名のとおり歌詞に彼女のセルフデーターが歌い込まれていた。「1967年4月生まれ今16才」の部分に男は感応した。「生年月日をあんな軽々しく扱う倉沢はカバラを汚す者だ。倉沢は魔女だ」。かくて彼は、小脇に抱えた少年マガジンに包丁を隠し、サイン会場に向かったのである。

▲『プロフィール』。実年齢とともに歌詞は加算されるようだ。

借金3800万のニャンニャンン地獄
 
 高部知子以後、さまざまなタレントの「ニャンニャン写真」が流出し、写真週刊誌をにぎわせた。まず思い浮かぶのは、「第2のニャンニャン騒動」ともいわれた横須賀昌美のそれである。
 横須賀は当時19才。お嬢系女子大生ふうな雰囲気で好感度はバツグンで、資生堂やJALなど大手企業のCM7本を抱える売れっ子だった。そこへ降ってわいたニャンニャン騒動。乳房こそ見えてはいなかったものの、ベッドでひとつ毛布にくるまった裸の横須賀と男性のショットは、何があったかを想像させる”説得力“充分だった。

横須賀昌美は根性の人だった。

 後年、横須賀自身が告白したところによれば、男性は「当時、結婚を前提にして交際していた」相手で、画面には写ってはいないが、現場にはもうひとり友達がいて、写真は3人でふざけて撮ったもので、断じて情事の後ではないとのことだ。それを信じる信じないは別としても、写真の流出元が、その交際相手であるのは間違いなかろう。
 この写真のおかげで、横須賀は事務所を解雇となり、CM降板による違約金3800万円(現在だったら、1億を超えていたであろう)を抱え込むこととなった。3000万円は、貯金をはたいて払い、残りの800万は、クラブの雇われママなどを掛け持ちして、2年でどうにか完済したという。
 その後、Vシネマ『マニラ・エマニエル夫人』シリーズで復活。文字どおり、裸一貫で再起を図った体当たり演技で人気を博し、Vシネクイーンとふたつ名で呼ばれたのも記憶に新しい。現在は、郷里である金沢で実妹とスナックを経営しているという。

会社のロッカーから流出?

 大蔵省の職員から芸能界入り、歌手、女優、それに司会と活躍していた沢田亜矢子。実年世代から「息子の嫁にしたい女優」に選ばれたこともある。
 彼女もまた、ニャンニャン被害にあった一人だ。1985年のことである。
 ショットは複数あって、いずれも同一のロケーションで、ベッドとカーテンの感じから男の部屋らしい。沢田は、全裸で、あるいは白いパンティ一枚で、ベッドの上に寝転んだり、体育座りをしたり。小ぶりだが形のいいバストが印象的で、どこか寂し気な上目遣いに、けだるさが漂う、”いかにも“な写真だ。当時、35才だった沢田だが、写真はそれより4~5才若いようにも見える。水着の跡があるところから、夏の終わりか秋口に撮られたものだろう。
 沢田のケースでは、撮影者である元交際相手がワイドショーに堂々登場し、インタビューに応えていたことだろう。男性は沢田よりも若干若い一般サラリーマンで、問題のヌードポラロイドは会社のロッカーにしまっておいたが、ある日、確認すると誰かに持ち出されたのかなくなっていたというのである。要するに、自分が流出させたのではない、と言いたいわけだろうが、それが本当だとしても、保管場所も含めて管理の甘さは大いに責められるべきではないか。下手をすれば、彼女の女優生命は吹き飛んでいたかもしれないのだ。
 沢田は、ニャンニャン流出のあった年の4月、ひっそりと渡米、女の子を出産している。未婚の母ということで、大いにマスコミに追いかけられたものの、今にいたるまで彼女は父親が誰なのかは一切明かしていない。某元野球選手の名が囁かれていたのは周知のとおり。その愛娘が、現在、シンガーソングライターとして活躍する澤田かおりである。
 1995年、沢田はマネージャーだった年下の男と子連れ結婚。これでようやく幸せを掴むのかと思えば、その男というのが、あのゴージャス松野だ。ほどなく、沢田の口から松野のDV癖が明かされ、それを機に泥沼の離婚劇に発展、松野は裁判に証拠として沢田とのセックスビデオを提出するとまで息巻いていたが、そのビデオが実在していたかは今も不明。そちらが流出していたら、さらなる大スキャンダルとなっていただろう。
 こうみると、沢田亜矢子という人は、つくづく男を見る目がないようだ。

整形してみたり、新沢田亜矢子をデビューさせたり、ホストになったり、プロレスのリングに上がったり、AVに出たり……。

熟女ニャンニャン
 
 石井苗子女史といえば、女優でキャスター、作家で保険学の博士号をもち、現在の肩書は参議院議員と、まさに才女と呼ぶにふさわしい御仁。彼女のあられもない写真が「女性セブン」に持ち込まれたのは1999年のことである。シミひとつない白い肌に、ふくよかなバスト。おまけにくびれもなまめかしく、御年45才の堂々たる熟女ニャンニャン写真でありました。
 同誌によれば、この写真を持ち込んだ27才の男性は、かつて石井の個人オフィスの共同オーナーで、むろん男女の関係にあったという。石井は夫も子供もある身だから、当然不倫ということになる。
 当初、石井は、「裸体写真は以前、医療用に撮ったもので、ストーカーと化した男性が勝手に持ち出し週刊誌に売ったのだ」として不貞自体を否定していたが、誰も信じる者はいなかった。その後も、男は「夫と別れろ」と石井に迫り続け、脅迫の罪で逮捕されるのだが、どうもこの男、人妻の色香に狂い本気になり過ぎたというのがホントのところらしい。一方の石井からすれば、単なる火遊びの相手に過ぎなかったようだ。
 そればかりではなく、一連のニャンニャン写真の撮影者はこの男ではなく、他にいるという噂も流れていた。石井と長い間不倫関係にあったとされる作家の島田雅彦である。
 
BUBKAの参戦でニャンニャン無法時代へ
 
「ニャンニャン写真」の歴史は『FOCUS』、『FRIDAY』とともにあったが、2000年代を境にして微妙に変化が訪れる。『BUBKA』(白夜書房)、『ナックルズ』(大洋図書)といった、エロ本系出版社発行の写真投稿雑誌がこの戦線に加わり、しまいにはFFのお株を食ってしまうのである。
 FFの場合、版元が大手ということもあったから、それなりに芸能プロダクションともつながりがあった。だから、出所不明であったり、ただ有名芸能人に似ているというだけの怪しげなニャンニャン写真は基本的に掲載することはなかったし、写真が複数枚ある場合、写真Aを掲載する代わりに(さらにきわどい)Bは掲載しない、といったようにプロダクションとの間の阿吽の取引きも存在した。
 しかし、ある種のアングラ性がウリのエロ本系写真投稿誌には、そういった仁義はない。本物かそっくりさんか微妙な写真でも「?」つきで載せてしまう。あるいは、ハメ撮りもどきのエグい写真であっても躊躇はない。プロダクションも騒げば、よけい傷を広げるだけから黙認である。となれば、『BUBKA』の過激さの前にFFがかすんでしまうのも仕方のないことかもしれない。
代表的なのは、2001年7月号に掲載された、奥菜恵と押尾学のベッド写真である。一応、表紙には「奥■恵」「新進俳優ОМ」と伏字で表記され、「?」つきというエクスキューズがなされてあったが、写真はどう見ても”本人“。全裸でイチャつく姿からオーラルプレイを思わせるものまで、これまでの「ニャンニャン写真」のレベルをはるかに超える生ナマしいショットの連続だった。奥菜あるいは押尾が持ち込んだものとは考えられず、ラボ(現像所)からの流出だと言われた。
 同号の『BUBKA』は完売。騒動を避けるように奥菜は謹慎に入り、以後、結婚、不倫、離婚を繰り返していく。押尾は2009年8月、合成麻薬МⅮМAを一緒に服用中だったホステスが死亡、麻薬取締法違反と保護責任者遺棄致死罪で逮捕され、事実上、芸能人生命が絶たれている。
 移り変わりの激しい芸能界、今では藤本綾の名を聞いてもすぐに顔を思い出す人も少ないかもしれない。それもそのはず、彼女は正統派アイドルとして売り出し中に流出したニャンニャン写真が原因で芸能界からフェイドアウトせざるをえなくなったのだ。
 大物でいえば、広末涼子、酒井法子のものとされる「?」付き写真が出まわり、真贋を巡って2ちゃんねる等でも大いに論争が展開されたものだ。
 こういったそのものズバリの写真に慣れてしまうと、高部知子のニャンニャン程度で日本中をひっくり返すような大騒ぎになった時代が今となってはなつかしくもある。その意味で、2017年『FLYDAY』9月に載った、斉藤由貴の不倫キス&パンツ被り写真は、どこかほのぼのとしたものさえ感じさせた。
写真流出後、対処を巡って事務所と協議、記者会見を開き、写真が本物であり、パンツ被りの男は主治医で5年間にわたってW不倫関係にあることをあっさり認めてしまった。尾崎豊、川崎麻世と過去、感性の赴くまま、不倫を繰り返してきた彼女だけに、「ま、斉藤らしいな」で済まされ、さらなるスキャンダルに発展しなかったというのも、人徳というものなのだろうか(?)。
写真(画像)は医師のPCから流出したというから、これも時代を感じさせる。 

斎藤自身が本人であると認めた医師との不倫写真

ニャンニャン1号・高部知子のその後
 
 最後に。元祖ニャンニャン写真・高部知子のその後を見てみよう。
 1984年、1年3カ月の謹慎を終え、ドラマ『転校生Y』でカムバック。しばらくして、幼馴染と結婚、引退。2児を設ける。夫婦そろってコンビニエンスストアを切り盛りする姿が週刊誌に伝えられた。その後離婚し、再婚相手とも離婚したかと思えば、1999年、突如、乳首と性器にピアスを入れたSM調ヌード写真集でカムバック! あれには驚いたわ。なんでもSMは、2度目の結婚中に交際していた不倫相手から仕込まれたそうで、「夫には悪いけど、初めて女としての官能を知りました」とのこと。2001年にエロスサスペンスと銘打ったV作品『パラノイア』で女優としてもカムバックするも、これはほとんど話題にならず。しかし、前年、慶応大学文学部通信課程に入学しており、これは5年で卒業している。現在は、精神保健福祉士を修得、認知症や薬物依存症に関するカウンセリングやケアに取り組んでいるほか、浄土宗の僧籍にもあるという。
 とまあ、波乱の人生なわけである。
彼女にとって、「ニャンニャン写真」とはなんだったのか。きっと本人の中では答えが出ているのかもしれない。
 

高部知子のピアス・ヌード写真集『Objet D'amour』。中身をお見せ出来ないのは残念。

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初出・『昭和39年の俺たち』月号失念 若杉大名義

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