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青い燕・朴敬元と爆音の天女たち(後編)

(リード)
金髪の飛行士、男装の麗人、反骨の女性記者……日本の航空史を飾る個性豊かな天翔ける乙女たち。その中心に一人の朝鮮人女性がいた。

李貞喜と正田マリエ

朴敬元(中央)と李貞喜(左)。筆者の知る限り、二人が並んだ写真はこれ一枚限り。飛行学校時代のものだろう。当時の絵葉書より。

 敬元の死は大きく報道され、朝鮮そして内地は悲しみに包まれた。敬元の後輩で妹分だった李貞喜がその訃報を聞いたのは故郷京城の病院のベッドの上だった。朴敬元が事故で帰らぬ人となる3日前の8月4日、京城の自宅で服毒、瀕死となっているところを家人に発見され担ぎこまれたのである。失恋自殺だったという。幸い命はとりとめている。
 李貞喜は敬元より9歳年少の1910年(明治43年)生まれ。彼女もダンサーや運転手などをしながら資金を貯め、また新聞社(中央日報)からの後援を受けながら1927年(昭和2年)、18歳で飛行学校を卒業している。朴敬元に次ぐ半島出身の女性パイロットとして大いに注目を浴びていたが、卒業間もなく舞踏家に転身し世間を驚かせた。
 東京日日新聞府下版(1929月9月26日)の取材に対して李貞喜はこう答えている。
「舞踊といっても御承知のようにカフェのダンスとは違います。だらくした等という世評が口惜しう御座います。女の二等飛行士では到底生活が出来ませんので糧を得る為にもと舞台への生活を選んだのです」。
 無念がにじむ。朴敬元が憂えた女性飛行士たちの、これが現実だった。舞踊の方は、あの崔承喜を育てた石井獏の門下に入り、かなり熱心に打ち込んだようである。しかし、李自身が「それに妾(わたし)は飛行機に乗って居たので、脚ががに股で困ります。これをまず直さねばなりません」と語っているように、身体的なハンディがあった。結局、ダンサーとしても大成しなかったようで、その後故郷の京城に還って元のタクシー運転手の職についているという知らせが届く。なぜ、運転手かというと、当時、飛行免許の習得には、自動車免許の習得が条件であり、パイロットにとって手っ取り早い転職先だったのである。相羽有の日本飛行学校をはじめ、飛行学校の多くは自動車学校を併設していた。そんな雌伏の日々が報われぬ恋に彼女をすがりつかせたのだろうか。

李貞喜が運転手に転身したことを告げる記事。第一線から姿を消したとはいえ、彼女に対する大衆の関心の高さが伺える。当時は自動車の運転ができる女性自体、そうそうはいなかっただろう。(毎日新報1931年3月13日)
李貞喜が服毒し瀕死というニュース。大切なフライトを控え、朴敬元はこの記事をどのような気持ちで読んだのであろうか。動機に関しては、失恋説の他に事業失敗説もあったようだ。(毎日新報1933年8月6日)

 だが、尊敬する先輩の壮絶なる殉職は、貞喜の心に再び火をつけた。彼女はどん底の中から立ち直り、朴敬元の一周忌にあたる、1934年(昭和9年)8月7日に追悼飛行の大任を果たしたのである。李貞喜は水上機に乗り、正田マリエの乗るサルムソン機とペアで、朴敬元が散った玄獄上空を周回、花束を投下している。

『主婦之友』1934年(昭和9年)11月号に寄せた李貞喜の手記「祖国愛に燃ゆる朝鮮生れの女流飛行家」。半島出身者の祖国愛は禁忌でなかったことがわかる。
同誌より。下層階級出身の朴敬元とは対照的に李貞喜は没落両班の家に生まれている。右ページは4歳の貞喜と祖父。左ページ、貞喜と写っているのはフランスの女性飛行家マリーズ・イルズ。1933年と34年、2度にわたりパリー東京間を成功させている。1935年6月23日に14310mの女性の高度記録を樹立。1946年、墜落死。享年42。
朴の事故死、自身の自殺未遂騒動から2年。悲しみを乗り越えた李貞喜は婦人薬「命の母」の広告ガールへ。朝鮮婦人、同胞婦人のフレーズが躍っている。とはいえ、子宮病という文字はちょっと生々しすぎる。(中央日報1935年12月3日)

「金髪の女性飛行士」正田マリエもこの時代を彩る異色のパイロットだ。本名はマリー・ベドウフ。オーストリア人で、日本人・正田正雄との結婚を機に帰化してマリエになった。夫と離婚後も日本に残り、ドイツ語教師として働きながら、1931年に立川の日本飛行機学校に入校したという。ただしマリエに関しては謎も多く、当時の報道でも媒体によって、ドイツ出身となっていたり、チェコのプラハ生まれとなっていたりとプロフィールが微妙に異なっている。プラハ生まれとしているのは雑誌「婦人界」(1932年7月号)で、これによると本名はリッチイ・デドウット。何気なく開いた新聞に北村兼子の死亡記事を見つけ、彼女も意志を受け継ごうと思ったのが飛行士になったきっかけという。

正田マリエ。夫とは死別説もある。夫との間に長男がおり、故国に弟が住んでいて姉が飛行士になったことを喜んでいると語っている。またパラシュート降下も経験済みだそうだが、どこで訓練したのだろう。謎の多い人物だ。

 北村兼子は、女性参政権運動に健筆を振るったジャーナリストで、その傍ら飛行士を目指し日本飛行学校に通っていたが、志半ば27歳で急逝している。朴敬元とも親しくしており、彼女の女流飛行士論も多分に兼子の女性権利運動の影響を受けていると思われる。また兼子は自著『大空に飛ぶ』(1933年・改善社)の中で、日米開戦を既に必至とみて「米国が二千の飛行機を飛ばしてくるのに日本は肉弾で行く」と航空戦力に対する日本軍の無知無理解に警告を発し、また大量破壊兵器の登場さえ予言している、という慧眼の人でもあった。

北村兼子。関西大学法科在学中に朝日新聞入社。その後フリーに。「婦人の力強くなるのは男性の幸であり、児どもの福である」などの切れ味のある名言多し。小泉又次郎や藤田嗣治とも懇意にしていた。訪欧飛行を計画、出発を一月後に控え腹膜炎をこじらせて死去。享年27。

 さて、正田マリエの談話を東京日日新聞府下版(1932年10月7日)に見つけた。
《妾(わたし)は日本の女性として近くライト・プレンの優秀なのを買って訪欧飛行をやります。ブルース夫人、ジョンソン嬢、エツッドルフ嬢などあちらの女性は皆飛行機で日本を訪問しているのに、日本から一人の女性も飛ばないというのは情けない。妾はどうしてもやりますよ。》
 まるで、マリエの口を借りて朴敬元が言葉を発しているかのようではないか。

エミー・ジョンソン。英国の女性飛行士。1931年、ジャック・ハンフリーとのペアで日本へのフライトに成功。その後、年下の飛行家ジム・モリソン(むろん、ドアーズとは関係なし)と結婚、夫婦で大西洋横断飛行を敢行するも、のちに離婚。第2次大戦中は航空輸送予備隊に所属。濃霧に巻き込まれ落下傘で降下脱出したが、行方不明。
マルガ・フォン・エッツドルフ。ドイツの女性飛行士。独国2人目の女性パイロット。曲芸飛行も得意とした。1931年、ベルリン=東京間を飛行。1933年、ベルリン=南アフリカ間のフライトに失敗、ピストル自殺している。享年24。
開場したばかりの羽田で歓迎を受けるマルガ。首が太く、骨格も男性的だ。彼女の隣にいる飛行帽の女性は誰だろう。

翼を継ぐ者

 さて、李貞喜のその後を記さなければならないのがつらい。
 戦後、祖国に帰った貞喜は大韓民国成立とともにパイロットとしてのキャリアを買われ、1949年(昭和24年)に発足したばかりの韓国空軍に大尉として迎えられる。「空軍女子航空隊」と称する女子パイロットの育成部隊が作られ、貞喜はそこの教官として後進の指導を行うことになった。失恋自殺未遂から職業軍人へ、雄々しい成長であった。だが、翌1949年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発、北朝鮮軍によってソウルが陥落すると取り残された李貞喜大尉は捉えられ北に送られてしまう。以後の消息は不明で、おそらくは処刑されたものと思われる。指導者を失った女子航空隊もその直後には解体の憂き目にあい、現在の韓国には朝鮮人女性パイロット・李貞喜を顕彰するためのよすがは残っていない。ならば、われわれ日本人が朴敬元とならび李貞喜の名を永遠に刻み込むべきではなかろうか。
 最後にもう一人、朴敬元ゆかりの女性パイロットを紹介しておこう。木部シゲノである。映画『青燕』で、朴敬元のライバルで最大の理解者である木部雅子なる日本人女性飛行士が登場するが、そのモデルといわれている。
 シゲノは1903年(明治36年)福岡県生まれ。3歳のとき一家そろっては朝鮮平安南道に移住し魚屋をいとなんでいる。稼業の魚屋を手伝うためにオートバイの免許を修得、そのスピード感に取りつかれた彼女はのちに大空を目指すようになる。
 1923年(大正12年)、シゲノは単身上京し、横浜の第一航空学校に入校。172センチという朴敬元を上回る長身、柔道を得意とし、七三分けの短髪にロイド眼鏡、蝶ネクタイがトレードマークで、「空飛ぶ男装の麗人」と呼ばれ、ブロマイドも売り出されるほどに女学生の間では騒がれた存在だった。日活、東宝両社から高額のギャラで映画出演のオファーもあったが、「自分はまだ未熟」という理由で賢明にもこれを断っている。一人称は「ボク」だったという。愛機は逓信局払い下げのニューポール24戦闘機(フランス製)である。

木部シゲノ。日本で初の女性二等操縦士。空中で翼の上に立つなどの曲乗りも得意だった。戦後は羽田空港内の協会事務所責任者として勤務。生涯を独身で通し、1966年、長年の航空界への功績により勲六等宝冠章(宝冠章の対象は女性のみ)を受勲。授与の式典ではドレスでなくタキシード姿で現れたという。予科練出身の元特攻隊員、航空自衛隊の創立メンバー・末松千里は自著の中で、子供のとき、シゲノの曲芸飛行を見て飛行機乗りに憧れたと記している。女性であることを知ったのは戦後だったとか。
「機上から御禮御挨拶申上げます」とあるから、故郷(福岡)の空からこれを撒いたのだろう。なんとも粋だ。
木部シゲノ。もっともよく知られた男装のポートレイト。

 シゲノは生粋の内地人だったが、朝鮮育ちということを誇りにし、同じ”朝鮮出身”の朴敬元には相当のライバル心をもっていたらしい。戦後は一般社団法人日本女性航空協会)の設立に尽力し、理事職についた。1952年(昭和27年)のことである。
1974年(昭和49年)8月7日。静岡県熱海市の医王寺において、朴敬元の40周忌の慰霊祭が執り行われた。婦人航空協会からは木部シゲノ、及位ヤエ協会長が参列し、かつてのライバル、そして偉大な先輩の冥福を祈り偉業を讃えた。協会の機関誌『婦人航空』に、事故現場に花を添え手を合わせるかつての同志たちの写真が載っている。キャプションを読むまでてそこに立つ丸眼鏡に背広姿の長身の老人が女性、つまり木部シゲノであることに気がつかなかった。盟友の死から40年、70歳の彼女はやはり「男装の麗人」だったのだ。

日本婦人航空協会の機関誌「婦人航空」(1973年3月号)。慰霊祭に先駆け、朴敬元の墜落現場を訪れ手を合わせるかつての空の盟友たち。真ん中の東海林太郎ぽい背広姿の人物が木部シゲノ。手前にいるのが及位ヤヱ。一番奥が内藤静代。同協会は1983年には朴敬元の50周忌慰霊祭も執り行っている。今年(2023年)は、朴敬元の没後90周年にあたる。

 現在、事故現場には追悼碑が建っている他、熱海梅園内の韓国庭園に「朴飛行士記念碑」が建立されている。朴敬元は、大空をめざすすべての女性の守り神となったことを喜んでいることだろう。

初出・『こんなに明るかった朝鮮支配』(ビジネス社) 

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(追記1)
 玄岳山中の朴敬元追悼碑参拝は、急斜面の山道を一時間程度上り下りしなければならないと聞き、雨で足場もぬかっていることもあり、今回の熱海旅行では断念。代わりに、梅園に訪れ「朴飛行士記念碑」に対面することができた。前日の冷たい雨が嘘のように晴れわたり、上着を着ていると汗ばむほどだった。いつかは、朴敬元の追悼碑に花を手向けたいと思う。

「朴飛行士記念碑」前で。同記念碑は、熱海で行われた森喜朗=金大中の日韓首脳会談(2002年)に合わせて建立されたものだという。「思いは遥か故郷の大空」の碑文は当時の熱海市長・川口市雄氏によるもの。

 現在でも、地元多賀村の人たちによって定期的に朴敬元の墜落現場の草刈りや慰霊碑の保全が行われ、その際には線香と花が手向けられるという。彼女の祖国では、「日本に魂を売った女」「民族的原罪を背負った女」という評価しか許されず、墓さえないのとは実に対照的だ。
 また、戦後日本で書かれた朴敬元関連の記事でも、いたずらに「差別」と絡めた記述があるのに辟易させられる。そもそも、差別があったなら、朝鮮人女性にパイロットになるチャンスもめぐってこなかっただろう。併合以前の朝鮮には、職業婦人という概念すらなかったのだ。むろん、当時の内地人の間に、半島人への偏見がまったくなかったかといえば、嘘になる。しかし、当の朴敬元はそんなことに頓着せず、ひたすら航空界の発展と女流飛行家の地位向上を願い、その礎にならんとまい進したのだ。僕は彼女の非業を名誉の戦死ととらえている。

(追記2)
 今回、本稿を再録するにあたって、朴敬元および同時代の女性パイロットについて、僕なりに調べ直してみた。これが実に面白く、ついつい本業の原稿書きがおろそかになってしまい担当編集者には迷惑をおかけしました(笑)。
 いくつかのブログにも示唆を得た。中でも一橋大学大学院言語社会研究科の金智媛氏の博士論文『飛ふ女たちの近代、民族、そしてジェンター』に出会えたことは幸運だった。パズルのピースのいくつかは、これによって埋められたといっていい。
 興味深い記述もある。金氏によれば、朴敬元、李貞喜に続く、朝鮮女性パイロットの第3号に金福男(キム・プクナム)という人物がいるが、彼女に関しては、ほとんど記録に残っていない。また、朴敬元に関していえば、彼女の生まれたときの名は敬元ではなく、パイロットを目指し内地へ渡る際に彼女自身によって改名したのだという。敬元はもとより、男性名である。日本にも、女の子に男の子っぽい名前をつけると丈夫に育つという迷信があるが、朝鮮も同様のようだ。敬元の改名は、先例はあるとはいえ女性飛行士という、ほぼ未開の大地へ足を踏み入れるにあたって、男と伍してやっていこうという覚悟の表れだったのではないか。そういえば、福男もどう見ても女性の名前ではない。及位ヤヱが自分の名前を「野位」と当て字にしたエピソードは前編で紹介した。これは偶然かもしれないが、兵頭精、香山修と、女性パイロットには、一見、男性と間違えそうな名前も多い。黎明期の女性パイロットを主人公にしたNHKの人気朝ドラ『雲のじゅうたん』のヒロインの名前は真琴(及位ヤヱと木部シゲノがモデルとの説も)だった。
 しかし、「男装の麗人」木部シゲノをさておいくとして、当時の女性パイロットたちは総じて、ひとたび愛機から降りれば、たおやかな女性に戻る。朴敬元のそのような一面は本稿で紹介したとおりだ。元祖フェミニストともいえる北村兼子の記者時代のエレガントなモダンガールぷりには思わず息を飲む。

北村兼子のモガ・スタイル。まるで女優のようだ。

 何度もいうが、飛行訓練に男も女もない。戦前の軍隊式精神論が色濃かった時代はなおさらだったろう。油にまみれ、しごきに絶え、一度空に舞い上がれば、墜落の危険が隣り合わせである。地上に降りた天女が、ひとりの乙女にもどるとき、それを「戦士の休息」と呼ぶことに僕は一切のためらいもない。

 これはおまけ。本稿では触れらなかったが、日本にもゆかりの深い米国女性パイロットの写真を紹介しよう。キャサリン・スティンソンである。

和服姿のキャサリン・スティンソン。1916年(大正5年)、日本で曲芸飛行を披露。その美貌もあいまって一世を風靡した。結核で飛行家を断念したあとは、建築家としても名を馳せる。不幸な最後をとげる女性飛行家も多い中、彼女は4人の養子を育て上げ、86歳の天寿をまっとうしている。


 


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