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満映のアニメーター ~中国・韓国のアニメにも満映の血が流れている

映画人・甘粕正彦

 今年(2023年)は関東大震災100周年である。ということは甘粕事件の100周年でもあるわけだ。同事件に関しては未だ謎が多い。甘粕は本当に大杉栄殺しの犯人なのだろうか。僕個人としては、大杉夫妻ばかりか6歳の幼子にまで手をかける冷血な甘粕憲兵大尉と、李香蘭や森繁久彌が証言する「人間力にあふれた、ダンディな紳士」という後年の満洲映画協会(満映)理事長としての甘粕正彦の人間像がどうしても結びつかないのである。そのことが、むしろ甘粕という人物と満映への尽きない興味となっている。

満映大運動会での甘粕正彦理事長

 こんな逸話がある。理事長として赴任した甘粕は、満映幹部が女優を酌婦代わりに酒席にはべらせていることを知り、「女優は芸者ではありません。芸術家です!」と激怒したという。また満映は、根岸寛一、岩崎昶ら、内地で活動の場を失ったプロキノ(プロレタリア映画同盟)出身者、いわゆる左翼系映画人にも門を閉ざさなかった。そればかりか、満映の巡映課長の大塚有章は、バリバリの共産党員、しかも赤色ギャング事件(共産党の資金つくりのための銀行強盗事件・1937年)の主導者だったというアブナイ人である。これらを受け入れる懐の深さを甘粕はもっていたのである。
 角田房子著『甘粕大尉』によれば、甘粕は満映解散の前日、即ち自身の自決の直前まで、総天然映画の研究開発に注力し、スタッフを鼓舞していたという。東洋初のカラー映画はぜひとも満映の手で、という強い意気込みだったのだろう。
 そして、これも意外かもしれないが、甘粕はアニメーションというジャンルにも強い関心を寄せていたのである。満映はいうまでもなく、国策映画会社であり、五族協和、東亜新秩序のスローガンを、映画芸術を使って内外にアピールすることを第一義としていたが、同時に、啓蒙映画、文化映画も多数つくっていた。当時の中国大陸はまだまだ文盲も多く、彼らに保健衛生や近代農法の重要性を説くには、映像、とりわけアニメが有効な手段であったのだ。たとえば、『可伯的虱子』(シラミはこわい)は、その名のとおり、シラミ駆除を通しチフスなどの感染防止を説く啓蒙短編アニメで、キャラ化したシラミが登場、「大変だ、人間様が入浴をおぼえた」などと会話するシーンがある。監督はなんと、戦後、東映任侠映画で名を馳せる加藤泰である。

持永只仁と東北電影公司

 さて、ここから先は、満映に関わった二人のアニメーターについて触れてみたい。
 持永只仁は、『桃太郎海の神兵』(1942年)の瀬尾光世(彼もプロキノ出身者)の片腕として活躍したのち、1945年5月に満映に参加。満映在籍は3カ月と短かったが、同社解散後は家族とともに大陸に残り、この間に、ソ連兵の侵攻を経験している。流浪の一家に声をかけたのは、満映で同じ釜の飯を食った満人スタッフだった。旧満映は共産党傘下の映画会社・東北電影公司として再スタートを図る、ついては、持永先生に同社で後進の指導に当たってほしいとのことである。東北電影には、同じく旧満映の残留日本人スタッフも多数いて、みな新中国の映画文化建設のために燃えていた。
 持永は、「池勇」という中国名で人形アニメ『皇帝夢』(1947年)を制作。これは蒋介石の国民党政府を皮肉るプロパガンダ性の高い作品だった。

『皇帝夢』を制作中の池勇こと持永只仁。
『皇帝夢』に登場する凶悪そうな蒋介石の人形。

その後、東北電影の一部スタッフとともに上海電影製片廠に移籍し、技術指導を担当する傍ら、「方明」名義で『謝謝小花猫』(1950年)、『小猫釣魚』(1951年)といった児童向けセルアニメーション作品を監督している。これら作品は現在、YouTubeで鑑賞可能である。
 1953年に帰国後は、中国で研究開発した技術を活かし、人形アニメーションの第一人者として最晩年まで活動した(1999年没)。1979年には、乞われて再び訪中し、技術指導にあたっている。

▲『謝謝小花猫』

▲『子猫釣魚』。中国の古い寓話がモチーフ。

韓国アニメの父・森川信英

 もう一人は森川信英。9歳で両親を亡くした森川は、松竹蒲田撮影所に子役兼雑用係として入所。米アニメ『ボスコ』に刺激され、見様見真似で10分程度のアニメフィルムを一人で完成させたところ、その出来栄えを認められ、『かえる剣法』の題名で劇場公開されている。このとき森川はわずか12歳だったという。召集され大陸で現地除隊するが、もとより内地には帰る家も家族もない。マンガ映画の夢を捨てきれぬ森川は、満映撮影所の門前で、甘粕理事長の車の到着を待ち、直訴して入社を許される。甘粕満映が、いかに「来る者拒まず」の社風をもっていたかの証左である。森川に課せられた仕事は、満人アニメスタッフの育成だった。
 戦後、銀座にアニメ・スタジオをオープンし多忙を極めていた森川に、ある日こんな連絡が入った。1965年の日韓基本条約締結に伴う技術協力のひとつにアニメーションが加えられ、その指導員として森川に白羽の矢が立ったというのである。森川によれば、政府からの要請で、三菱商事が窓口を担っていた。
 時の韓国大統領、朴正煕は、日本の技術協力に関し、三菱商事を通して「あの戦艦武蔵を建造した三菱重工のお力をお借りしたい」と懇願したという。三菱商事が日韓賠償ビジネスのパイプ役だったことがわかる。三菱重工は、現代自動車にエンジンを提供するなど、新日本製鉄と並んで韓国の重工業の発展に大きく寄与している。その両社を今、韓国は戦犯企業として、ありもせぬ強制労働騒ぎで訴えているのである。
 それはさておき、森川は渡韓し、美大生を中心としたアニメーターの卵80人の先生となった。当時、韓国はまだ貧しく、紙と鉛筆を確保するのも大変な状況だった上、しかも公の場での日本語会話は禁じられており、指導は身振り手振りと黒板による筆談が中心だったいう。
 この流れの中で、日韓共同でテレビアニメ番組の制作の企画が持ち上がり、『黄金バット』、『妖怪人間ベム』の2作が制作された。この2作は便宜上、第一動画という日本のアニメ会社の制作となっているが、すべて韓国人スタッフの手による純韓国アニメであり事実上の逆輸入作品なのである。特に、後者では、全体的な無国籍性に加えて、どんよりとした空の描き方などそれまでの純国産アニメとは異質なムードを醸しており、今なおカルト的なファンを多くもつ。森川によれば、ソウルは曇天が多く、韓国人スタッフに「日本晴れ」の色が伝わりにくかったからだという。また、戒厳令の時代の若者たちの鬱屈した心情が影響しているのかもしれない。ちなみに、『黄金バット』には、のちに『テコンV』の監督として知られることになる金青基が参加している。

▲『黄金バット』。独特の色彩設計。

 森川は4年間の技術指導を終えて帰国。その間の十数度における日韓往復の渡航費用はすべて自腹だったという。晩年は、『まんが日本昔ばなし』にその腕を振るっている。
 こう見ると、中国、韓国のアニメには、満映の血が流れているのである。それは、「異国の大地に文化の華を咲かせる」(角田『甘粕大尉』)ことを夢見た映画人・甘粕正彦の理念でもあったのだ。

▲『妖怪人間ベム』。韓国でもそのまま妖怪人間(ヨウケイインガム)。何度聞いてもかっこいいOP曲だ。ゴスペラーズにカヴァーしてほしい。

参考/角田房子『甘粕大尉』(筑摩書房)、山口淑子・藤原作弥『李香蘭 私の半生』(新潮社)、星まこと(編著)『伝説のアニメ職人(クリエーター)たち』(まんだらけ出版)※森川新英インタビュー掲載

初出・『表現者クライテリオン』2023年7月号


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