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細部にこだわる精神──大友克洋と70年代

今回『スペクテイター』が注目する特集のテーマは「1976年のサブカルチャー」です。1976年はマンガとビートルズで育った世代が人口の過半数を制する時代のはじまりで、日本のサブカルチャーにとってエポックメイキングな年だったのです。
本誌の特集では、「アニメ」というジャンルについて、「宇宙戦艦ヤマト」の初放映時の話を、当時のファンクラブ会長だった評論家の氷川竜介氏から聞かせていただけました。しかし、構成の都合上、「マンガ」について何もふれずじまいとなってしまったので、多少心のこりになっていました。
そんなとき、足を運んだマンガ同人誌の即売会で、気になる冊子を見つけました。『大友克洋全集解説』と題された活字中心の印刷物です(現在、6冊まで刊行中)。講談社から「大友克洋全集」が2022年から配本開始されていますが、その刊行に付随させるかたちで、大友克洋の全作品を時系列で一作ずつレヴューを重ねていくという試みで、大友全集の解題的な意味を持たせたいのだろうと思われます。
この研究誌の存在から、大友克洋という作家の足どりに注目してみることで、「70年代」にふれることはできないかという考えが浮かび、冊子の発行者・鈴木淳也氏(氏はWEBサイト「Apple Paradise」の管理者でもある)にお願いして、インタビューをさせていただくことにしました。
このインタビューで同席をお願いしたのは、元『COM』編集者、マンガ家/マンガ評論家の飯田耕一郎氏です。飯田氏は古くから大友克洋作品に注目、言及されていた方で、評論集『耳のない兎へ』(北宋社)で1980年に発表した「目覚めよと呼ぶ声あり」は、もっとも早い時期に書かれた本格的な大友論です。
おふたりは、共同で大友作品に関するトークライヴなども行なっています。


(聞き手:赤田祐一/スペクテイター編集部)



──大友克洋が1976年に発表された作品は、現在、講談社から刊行中の大友克洋全集の2巻と3巻にまたがってすべてが収録されて読むことが可能ですが。それらの初期作品と描かれた時代についての考察などについてお聞きできればと思います。

飯田 1976年というとぼくは、官能誌でエロマンガを描きながら同時に『TVガイド』のイラストや『朝日小学生新聞』で少年マンガを描いていたマルチな頃ですね(笑)。76年はエロ劇画誌が20誌以上創刊された年でした。乱立する雑誌のなかで石井隆などの影響もあったと思いますが、ただエロではなく個性的な作品を描く新人たちもたくさん登場していました。エロ劇画誌だけでなく、『漫画アクション』のような大手出版社の青年誌からも、ダディ・グースや福山庸治など、マニアックで表現に意識的な新人が登場しました。そのような新人のひとりに大友さんもいて。当時大友さんが74年から75年にかけて『漫画アクション』で発表した「傷だらけの天使」という短編連作なども、それまで読んだことがなかったまったく新しいタイプのマンガだったんです。

───最初期から大友作品を読んでおられたのですね。

飯田 デビュー作の時代から気になってました。最初に意識したのは『増刊漫画アクション』に発表された「上海かぜ」(74年)ぐらいで。当時、出ていたマンガ雑誌は片っ端から全部目を通してチェックしていたんですが、その過程で、大友さんの存在を知るわけです。

───最初に読んだとき、どんな印象でしたか。

飯田 こんなに斬新な描画で作品を描く人がいるんだと。連作の「傷だらけの天使」では毎回衝撃を受けていました。当時大友さんは双葉社の専属作家だったそうですが、『漫画アクション』にそれまで掲載された作品をさかのぼって、一本づつ集めていったわけです。古本屋を回って。

───当時の古本屋は、マンガ雑誌が大量に売られていました。

飯田 最初、新刊書店で大友作品が掲載されているのを確認して、それから古本屋で安い価格で買い集めます。大友作品にかぎらないのですが、古本屋で雑誌を漁って、マニアックだったりおもしろいと感じた作品を見つけてきては、スクラップしていたんです。当時の大友さんは全くの新人で、単行本など出ていなかったから、スクラップした作品を熱心に読んでいた。さきほど話に出た「傷だらけの天使」という連作(全7話)などは衝撃的で。新しいタイプのマンガが登場したと思いました。

───どのあたりが新しかったですか。

飯田 視点が画期的でしたね。当時マンガの登場人物のシャツのシワをちゃんと描くのは、ふつうの作家はやらなかったのですが、大友さんの作品はいつも、なんでこんなにシワをきちんと描きこんでるのかと思いました。「星霜」(77年)という初期の作品がありますが、このマンガは、女子高の蔵書の描写がカッコよかった。一冊一冊、本の背表紙を、あれだけ細かく丁寧に描くというマンガを、これまで見たことがなかったです。単に細かい絵を描くだけでなく、本の背を丹念にリアルに描くことで、蔵書整理の話が引き立ってくるわけですね。このこだわりを持っているところがすごいと思う。描き手からすると、手間が多くてたまらない世界ですよね。ぼくも描き手だから当然、背表紙を描く作業が大変だということはわかるんです。でも、大変なことを思いついても、大友さんは端折らないで、当時はほぼひとりきりで描いてしまうわけです。単純な話のように聞こえますが、表現に強いこだわりを持つのが大友さんの特質だと思っています。

───鈴木さんは大友作品との出会いというと。

鈴木 飯田さんと較べると全然遅いんですよ。初めて出会ったのは「AKIRA」の連載途中の1987年です。「AKIRA」で大友作品に興味をもってから、過去の作品をどんどん掘っていきました。いちばん好きになったのは、単行本で『さよならにっぽん』とか『GOOD WEATHER』あたりを手に入れたときでした。「AKIRA」を知ってから大友作品を読んでいったぼくからすると、「傷だらけの天使」は正直、最初は良さがわからなかったです。

飯田 実験的でわかりにくくてクセも強くて、いまとはちょっと作風が違うから。

鈴木 いまの若い人に、たとえば当時、劇画の世界において石井隆の出現がどれだけ衝撃だったということは、なかなか理解しづらいですよね。それと同じようなことだと思います。講談社の大友全集は、これまで発表された大友さんの作品を、ほぼ発表された順番に読めるようにしたものですが、2023年から全集の刊行に合わせるかたちで、順を追って、大友作品について解説を書いてきました。一連の文章を通して読んでいただくと、デビュー作からの過程を、いかに大友さんが現在のような絵に到達していったかがわかるように書いているつもりです。

───「傷だらけの天使」はかなり重たい絵ですね。劇画的というか。

鈴木 過渡期の重さというか。自分の解説本にも書いたんですけど、たとえば影の入れ方とか、白をピュッと飛ばして光を導入するとか、そういう技法を大友さんは、おそらく、たくさんの写真を見て、描き方を研究したんだと思うんです。そしてしだいに、重くない描き方で、だけどリアルに見えるようになっていく。そういう技法を、75、6年あたりで極めていったように思うんですね。やがてそれが「白っぽい」と表現される絵柄に到達して、当時としては「手抜き」とすら思われるような作風になったんですが、これが当時の青年誌の中では異彩を放っていたように想像されます。

飯田 写真を見てマンガを描くということに関しては、それ以前に宮谷一彦というマンガ家がいて。宮谷一彦は当時、『COM』や『ヤングコミック』の人気作家だったのですが。宮谷一彦は、たとえば土門拳が撮影した仏像の写真や、煙を吐いて疾走する蒸気機関車の写真などを、克明にリアルに、見開きページを使ってイラストで描いていた。そしてその絵を自分のマンガに取り込むようなことを、自分の表現にしていたんです。この手法が同業者に与えたインパクトもすごかった。『COM』に投稿経験のあった大友さんは、宮谷一彦とか上村一夫の作品を同時代で読んでいると思います。

鈴木 宮谷一彦の作品を通して、大友さんが写真を使う方法を学んだのは間違いありません。しかし、この技法をそのまま踏襲するとしたら、宮谷一彦と同じようにしかならない。言ってしまえば亜流にしかならない。そこからたぶん、線を足したり引いたり、いろいろ試行錯誤して、自分の絵をつくっていったと思うんですね。

飯田 当時の『ガロ』や『COM』の実験マンガの感覚を咀嚼して、自分なりに取り入れることができた人です。画面処理の仕方もカッコいい。真似したいと思わせるようなショットをいっぱい出してきたり。絵柄だけでなく、大友さんのコマ運び、動きの止め方も、すごく気になりました。ふつうのマンガ家は、定石を踏みますよね。動線はこうやって入れて、この動きだったら次にこのコマが来るよとか。大友さんはそういう決め事のようなことは一切やらなかった。

鈴木 マンガを描く上で、線自体の強弱のようなものに頼ろうとしない。昔から指摘されてることですけど、大友作品は基本的には線が均一です。

飯田 大友さんの作品は、基本、線が太くないから。

鈴木 コマの中にあるものが、等しい力加減で描かれることで見せています。そのような描き方をするマンガ家は、それまであまりいなかったと思うんですね。写真的なリアルさを描く人はいたんですけど、一定の太さの線で、リアリティを表現できる作品を描く人は、あまりいないですよ。

飯田 それに、大友さんは、キャラクターの表現には、あまり執着してないと思う。ふつうは、主役の顔とか、脇役とかを、マンガ家ははっきりと描き別けるのに、大友さんはそういうかんじではなかった。極端にいうと、大友マンガにおいては、キャラクターは、どの人だっていいんですよね。大事なのはリアリティで、それをマンガに落とし込む表現力が卓越していて、新しかったですね。

鈴木 デビュー以前の作品に「まっち売りの少女」があります。見るとわかりますが、石畳の描き方がおそろしく細かいんですね。掲載本の解説で、深夜放送を聴きながら、石畳をコリコリ描くのが楽しかったみたいなことを自身で回想されてるんですけど。シャツの柄とか床のタイル模様とか、普通のマンガ家だったら辟易するようなところを丹念に、精緻に描く作業を、ひとりで描いちゃうわけですよね。それによって、ものすごいリアリティや、読み手を引き込んでいく絵を描ける人。職人的資質のある人でもある。そういう資質があって、なおかつマンガ絵として成立するような描き方を、今回のテーマに引きつけて言うと、だいたい76年ぐらいに確立していくんですよね。その後も、どんどん絵をブラッシュアップしていきますけど。

───76年というと、大友克洋は1954年生まれなので、22歳です。

鈴木 若いですねえ。高校卒業した翌年の73年7月がデビューですから。デビューして3年しか経ってない。

飯田 本当に特殊な人です。でも、才能というのは別に、22だからどうこうというものではない気がします。

鈴木 76年に、大友さんは「犯す!」という作品を『漫画アクション』に発表します。で、次の号に、初期作品として有名になった「ハイウェイスター」が発表されるんです。「犯す!」はレイプの話で、すごく内容的に重い作品です。絵的にも重い。いっぽうで「ハイウェイスター」は、絵もお話もカラッとしているんです。

───「犯す!」と「ハイウェイスター」は、ひと月ほどの間隔で、連続して発表されてますね。

鈴木 この2作が、76年の7月と8月に発表されているんですが。この2作のあいだに、はっきりと落差があるんです。「傷だらけの天使」の描き込みの多い時代から、だんだん引き算していって、「ハイウェイスター」の明るい絵柄になっていったじゃないですか。それまでの試行錯誤から、リアルなんだけどディフォルメはマンガであるという独自の絵を確立していったのが、ちょうど76年であったとも言えます。その意味で「ハイウェイスター」は、大友さんにとって、かなり象徴的な作品かなと思われるのです。通して眺めると、第二の大友さんのスタートライン的なかんじがするんですよね。ちなみに「犯す!」は、当時大学生のあいだで流行していた日活ロマンポルノがアイデアの元になっているようです。「ハイウェイスター」は『TWO LANE BLACK TOP』(公開時の邦題=『断絶』)がヒントになったロードムービーで、アメリカン・ニューシネマの代表作のひとつですね。「映画からの引用」も、大友作品の特徴です。同時代的な感覚が、見事にマンガに変換されています。

飯田 ぼくらは大友さんと同じような映画とかマンガとか見てきていると思うんですけど、大友さんはそのエッセンスを作品に取り入れていくことができるわけで、横目で見ながらすごいなと思ってました。自分もそういうことが自在にできたらどんなによかったかと思うんだけどね。青年マンガにとって、ちょうど76年前後が熟成の時期になっていったと思います。『ガロ』『COM』の先鋭的なマンガの流れをわれわれが見て育ったなかから、青年マンガという新しいジャンルが出てきて、自分なりの個性で作品を生み出していくという大きな流れのなかにいた。でも大友さんはその時代、すでに熟成していたということですね。

───「ハイウェイスター」という作品から、現在私たちがイメージするところの大友作品の「軽み」が始まったように思いました。ありがとうございました。


『OTOMO THE COMPLETE WORKS 4 さよならにっぽん』表紙


*インタビューに登場した作品は、以下の全集(講談社刊)に収録されています

*「上海かぜ」「まっちうりの少女」:『OTOMO THE COMPLETE WORKS 1 銃声』

*「傷だらけの天使」:『OTOMO THE COMPLETE WORKS 2 BOOGIE WOOGIE WALTS』

*「犯す」「ハイウェイスター」「星霜」:『OTOMO THE COMPLETE WORKS 3 ハイウェイスター』

*「さよならにっぽん」「GOOD WEATHER」:『OTOMO THE COMPLETE WORKS 4 さよならにっぽん』



スペクテイター53号  表紙デザイン/相馬章宏

スペクテイター 53号 1976 サブカルチャー大爆発

「政治の季節」と呼ばれる1960年代とバブル経済へ突入していった1980年代に挟まれて、まるでなにも起こらなかったかのように思われがちな1970年代。しかし、大人の目の届かない若者たちの世界では、文化的な爆発と呼ぶべき重要な出来事が起きていた。オカルト、アニメ、パンク、自己教育…。
4つのサブカルチャー誕生の瞬間に立ち会ったリトルマガジン関係者の証言や論考を通じて、1976年に起こったサブカルチャー大爆発の実情に迫る。

主なコンテンツ

PLAY BACK 1976
作画/関根美有

クロニクルズ 70年代の主な出来事

論考 アナザー・スピリッツ・オブ・76 〝76年精神〟とはなにか
文/宇田川岳夫

インタビュー①
氷川竜介氏(アニメ・特撮評論)に聞く『宇宙戦艦ヤマト』とファンダム形成史
取材・構成/鴇田義晴

インタビュー②
武田崇元氏(八幡書店社主)に聞く『地球ロマン』とジャパニーズ・オカルト再発見
取材・構成/宇田川岳夫

NIPPON 70S
写真/児玉房子

寄稿①
『ロック・マガジン』にみるパンクの日本上陸
文/東瀬戸悟
写真提供/阿木譲アーカイブ・開田裕治

寄稿②
自己教育の教科書として創刊された『別冊宝島』
文/長沼行太郎

まんが「夜の魂」
作/まどの一哉

はみだし偉人伝 その4
水谷孝 裸のラリーズと「死」
文/横戸茂
写真/中藤毅彦


スペクテイター53号
発売日 2024年8月30日
定価 本体1,000円+税
発行 有限会社エディトリアル・デパートメント
発売 株式会社 幻冬舎
ISBN 978-4-344-95476-2


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