見出し画像

ウマ娘の教科書(#2サイレンススズカ)

いつものように始まり、いつものように終わる、筋書きの見えるドラマ。サイレンススズカの晩年の走りは、まるでショーのような趣きすらあった。「短距離を圧倒的なスピードで駆け抜ける馬はたくさんいる。しかし、彼はそのスピードを持続することができた。しかも軽快に。すべての意味で次元の違う馬だった」とは、サイレンススズカを管理した橋田満調教師の当時の言葉だ。本格化するまで時間を要したが、ひとたび軌道に乗ってしまうと、その後の走りはパーフェクトとしか言う他なかった。クラシック戦線でのちぐはぐなレースぶりはもはや霧散していた。

『優駿』2006年4月号114ページより

・サイレンススズカの戦績

1997年

2月1日  新馬戦         1着

3月2日   弥生賞(G2)     8着

4月5日  4歳500万下       1着

5月10日  プリンシパルステークス(OP)    1着

6月1日  日本ダービー(G1)        9着

9月14日  神戸新聞杯(G2)             2着

10月26日 天皇賞・秋(G1)         6着

11月16日 マイルチャンピオンシップ(G1)  15着

12月14日 香港国際カップ(G2)          5着

1998年

2月14日  バレンタインステークス(OP)   1着

3月15日  中山記念(G2)          1着

4月18日  小倉大賞典(G3)         1着

5月30日  金鯱賞(G2)           1着

7月12日  宝塚記念(G1)          1着

10月11日 毎日王冠(G2)           1着

11月1日  天皇賞・秋(G1)        中止


サイレンススズカは1994年5月1日に生まれ、1998年11月1日に没した。
(しかし、この馬の「命日」は競馬ファンにとって大変ショッキングな出来事であったので説明不要であろう)

父はサンデーサイレンス、母はワキア、母の父はミスワキという血統であった。

生涯成績は16戦9勝。主戦騎手は上村洋行→河内洋→武豊と入れ替わっている。

1998年の宝塚記念のみ南井克巳が騎乗し、見事にGⅠ勝利を収めた。

1997年の牡馬クラシック戦線では活躍が目立たなかったものの(なお、同年の皐月賞・日本ダービーはサニーブライアン、菊花賞は上がり馬のマチカネフクキタルが制している)、神戸新聞杯は勝利したマチカネフクキタルに次ぐ2着、続く秋の天皇賞では6着と善戦した。

その後、マイルチャンピオンシップにも挑戦し、15着と大敗した。

キョウエイマーチが作るハイペースの2番手を追走。速い流れに、最後は脚をなくした。

”逃げ”の印象が強いサイレンススズカであるが、弥生賞の頃はゲートをくぐったことで外枠発走となった上、出遅れる痛恨のミスまでおかしている。

その結果、ゲート再審査を受けたこともあるのだ。

プリンシパルステークスは2番手、日本ダービーは悠然と前を行くサニーブライアンの3番手を掛かり気味に追走。

神戸新聞杯では逃げたものの最後はマチカネフクキタルの強襲に屈した。

天皇賞・秋は大逃げを打ち、場内を沸かすも直線で馬群に飲まれた。

マイルチャンピオンシップの結果は前述したとおりである。

このように、初期のサイレンススズカはゲート難および先手から逃亡者への成長期間(試行錯誤の期間)であった。

年末の香港国際カップ(現在ではお馴染みのGⅠであるが当時はG2)では武豊の直訴により、初コンビが誕生した。

結果は残り100メートルまで逃げ粘り、見せ場を作っての5着であったが、このレースで逃げの手を打ったことにより、陣営は一定の手応えを感じた。

スズカの快進撃は98年のバレンタインデーに始まる。

翌年、サイレンススズカは(偶然にもバレンタインデーに行われた)バレンタインステークスで始動した。

後に「3コーナーで息を入れられた理想的なレース」と武豊が語った見事なレースでの勝利であった。

続く中山記念もローゼンカバリーらの強襲をねじ伏せ、嬉しい同馬初の重賞制覇を達成した。

4月の小倉大賞典ではレコードタイムを叩き出し、トップハンデも問題としなかった。

そして、次のレースには金鯱賞が選ばれた。

本レースでは2着のミッドナイトベットに1.8秒差の大差勝ちを演じて見せた。

この勝ち方は今日でも「逃げて差す脅威のレース」として雑誌投票(「衝撃のレース」『優駿』2006年3月号の1位)の筆頭候補に挙げられている。

宝塚記念では2.8倍の1番人気に押され、見事に勝利を収めた(2着にはステイゴールドが入っている)。

こうして1998年の上半期は重賞4連勝を飾り、充実したものとなった。

それゆえ、ファンの間ではサイレンススズカに対する秋競馬への飛躍が大いに期待された。

秋競馬の初戦に選ばれた毎日王冠は伝説のレースとして語り継がれている。

(GⅠに匹敵する)スーパーGⅡと呼ばれる根拠は当時無敗の外国産4歳馬2頭、すなわちエルコンドルパサー(NHKマイルカップ優勝馬)とグラスワンダー(前年の朝日杯3歳ステークス優勝馬)が挑戦し、サイレンススズカと3強状態を形成すると同時に、東京競馬場に13万3461人の大観衆が詰めかけたことにある。

本レースでの1番人気はサイレンススズカ(1.4倍)、2番人気グラスワンダー(3.7倍)、3番人気エルコンドルパサー(5.3倍)であった(斤量はそれぞれ、トップハンデの59kg、55kg、57kg)。

結果は、1着にサイレンススズカ、2着に2と1/2馬身差でエルコンドルパサーが入った。

約10ヵ月振りの出走と状態にハンデを抱えていたグラスワンダーは5着だった。

(史上最高クラスのG2を連続して演じて見せた。)

1998年11月1日1枠1番、サイレンススズカは大目標である天皇賞・秋に出走した。

当日の単勝支持率は61.8%、単勝オッズは1.2倍と圧倒的なものとなった。

12頭で行われたこのレースでもサイレンススズカは”大逃げ”を打った。

1000メートルの通過タイムは毎日王冠を上回る57.4秒の超ハイペース。

大歓声が東京競馬場を覆い、また場外馬券売り場で、テレビの前で、全ての競馬ファンが見守る中、4コーナー手前で突然の失速。

競走中止となり、結局予後不良と診断され安楽死の処置がとられた。

つまり、

「稀代の快速馬サイレンススズカ」は虹の向こう側にある競馬界の一等星になった(幾多の先代の名馬と共に今日でも日本の競馬界を照らしている)。

なお、天皇賞の優勝馬は6番人気のオフサイドトラップであった。

「どこまで行っても逃げてやる!」、「沈黙の日曜日」、まるでお通夜のようなスーパー競馬の中継(天皇賞・秋)。

きっとあなたの心の中でも思い起こされる光景が多々あることだろう。

このレースがきっかけで競馬をやめた人もいた。

反対に、このレースがきっかけで競馬ライターを志した人もいた。

このレースがきっかけでウマ娘を作ろうと思った制作者が生まれた。

ウマ娘でサイレンススズカを知った人ができた。

ウマ娘にハマり、競馬を知りたいと思い、実際にサイレンススズカのレースを観た人が現れた。

そう。

きっとこの文章との出会いもまたサイレンススズカがもたらしたものだ。


天皇賞・秋当日。

サイレンススズカは場内に入場した後、大観衆手前のラチ沿いを気分よく頭を上下させながら、今や主戦ジョッキーである武豊騎手と共に歩いた。

私はその姿が今でも忘れられない。

後年、武豊騎手に「サイレンススズカとディープインパクトが対決したらどちらが勝つと思いますか?」(2012年の「近代競馬150周年記念」特別番組内)と尋ねた人がいた。

「どうですかねー」と言葉を濁した同騎手であったが、私は思う。

答えはない方がいいのではないか、と。

なお、2000年のミレニアムキャンペーン(「Dream Horses 2000」JRA主催)で公募され、ファン投票で選ばれた「20世紀の名馬100」では4位となっている。

※ 年齢は旧表記(数え年)

【参考資料】

おススメ本:

『優駿』2006年4月号(112~115ページ)
付録DVD:名馬の蹄鉄シリーズ サイレンススズカ

江面弘也(2019)『名馬を読む2』三賢社(サイレンススズカは2に収録)

おススメDVD:

名馬コレクションシリーズ サイレンススズカ:スピードの向こう側へ・・・

参考URL:

日本中央競馬会(JRA)ホームページ

ウィキペディアの「サイレンススズカ」、「Dream Horses 2000」の項目をより簡潔にしました。

トップ画像:
ゲーム『ウマ娘  プリティーダービー』(サイゲームス)

アニメ:
TVアニメ『ウマ娘  プリティーダービー』(サイゲームス)


追記)

このような話はよく聞く。ヤフコメ、ネット競馬の掲示板など。

今、サイレンススズカは蘇って元気よく走っています。

サイレンススズカ「誰もいない景色こそが特別だと思っていました。でも、今は・・・。」(ゲーム内の発言より抜粋)

(あなたの側にいます。)

(楽しい時も、辛い時も、私があなたの側にいます。)


(2022.3.5)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?