『インサイド・ヘッド』の「正しくなさ」

少し前に映画『インサイド・ヘッド』(原題『Inside Out』)(3D吹替版)を観た。

僕のTwitterのTL上では概ね評判は良いし、全体的に良い映画であることはよくわかるのだけれども、ただ、どうにも納得の行かない、引っかかる部分・価値観が少なからずあったので、否定的な見解にはなるけれど記録しておきたい。基本的に僕はディズニー作品に関しては異様に厳しいです。僕の感想はいつだって僕の感想です(トートロジーだけど念のため言っておきたい)。

『インサイド・ヘッド』、映画としては、11歳の少女であるライリーが持つ、ヨロコビ(JOY)、カナシミ(SADNESS)、イカリ(ANGER)、ムカムカ(DISGUST)、ビビリ(FEAR)といった擬人化された感情たちの話なのだけれど、あらすじ的なところはググってください。

その中で、概ね主人公かつ狂言回しとしてのヨロコビと、感情の中で当初役割が不明なカナシミが物語上のメインとして活躍する。結論から言うと「ヨロコビ」だけではなく「カナシミ」の感情もまた大事ですよね、という話ではあって、それを示す終盤は確かに感動モノにはなっている。

ただ、ライリーの中での、あるいはそれ以外の大人たちの中でもそうだけれど、その感情たちの擬人化が、あまりに露骨ではないか、というのが観ている間、終始気になっていた。カナシミは物語の当初から終盤に至るまでずっとネガティブであり(それは設定的に当然ではあるのだけれど)、行動もどんくさく、大事な思い出に触れるとその思い出を悲しくしてしまうため、他の感情からも厄介に思われている描写が何度も出てくる。一見ポジティブで優しく見えるヨロコビもカナシミには相当に手を焼いており、部屋の端で本を読ませてできるだけ何もしないように命じたり、更には床に小さな円を描いて「この円から出るな。仕事は自分で探せ」ということを(やんわりと)突き付けたりする。その他の感情たちであるイカリ・ムカムカ・ビビリも、特にカナシミに味方をすることはない。正直このあたりの描写はかなり恐怖だった。あぁ、こうやって厄介者は社会からパージされていくのか、というのが、アニメとして戯画化・擬人化されているからこそ、特に生々しく感じてしまったんですよね…。ヨロコビがカナシミに行なった仕打ちは企業のリストラ部屋にそっくりだし、あと数歩過激になれば連合赤軍の山岳ベースのようにさえなるのではないか、と思ってしまった。物語的にそれは終盤を感動させるためのフラグではあるのかもしれないけれど、「カナシミにも価値があり、決して否定的なものではない、むしろとても大事な感情なんだ」ということに気付くのが結構な終盤で(ラスト10分くらいじゃなかったかな…)、それまでかなり長い間カナシミはヨロコビにとって直接的には言わないものの「厄介者」として扱われ続けるし、大事な局面でヨロコビに明確に切り捨てられたりする。仕方がない選択としてヨロコビだけ司令部に戻ろうとする場面は、あまりに醜悪ではなかったか。無論、その醜悪な行動によってヨロコビは報いを受けるし、全体的に子供の感情だと言ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど、それで溜飲が下がるわけでもなかったんですよね…。

物語の最終的には先に述べたように「思い返してみればヨロコビの隣にはカナシミがあって、その役割も大事だよ、めでたしめでたし」とはなるのだけど、それまでのカナシミに対する仕打ちを見ていると、せいぜい「お情けを与えてカナシミを認めてあげた」という程度にしか僕には見えなかった。少なくともライリーの中ではヨロコビがかなり強く主導権を握り続けており、一番働いているように見えて実質的な独裁者であったヨロコビは、ポジティブな狂気であったように思う。狂気は僕の好物だけれど、なんか、あれはちょっとね…。ジョックであるヨロコビがナードであるカナシミを「認めてあげる」構図、と言ってしまうのは露骨かもしれないけれど、そのように見てしまった者としては、反吐が出る、と言いたくもなるくらいの描写ではなかったか。

(ただ、両親の前で「愉快な子供」を演じようとしたライリーがヨロコビを肥大化させていた、という見解もあって、それはそれでもののあはれを感じることでもあるのだけれど)

あと、途中で司令部に残っていたイカリ、ムカムカ、ビビリがいずれも無能な存在として描かれていて、この子は社会生活上で大丈夫なのかな…と心配になるところが多々あった、けど、そこはまぁ、子供の感情ですし、ゆーて大人でもたいがいなんですけどね…。良くはないけどね…。ただ、そこまで無能でいいのかってくらい物語的に無能だったよね…。そういう描写も含めて、感情の擬人化として、キャラ的にも物語的にも役割が決められすぎていて、直球すぎるというか、深みも何もない設定そのものを出されている感じは、かなり残念だった。役に立った(ように描かれていた)のはイカリのファイアーみたいな茶番くらいだけど、あれもお決まりの寸劇でしかなかったしな。寸劇やるなら東村アキコの漫画くらいの質にして欲しい。できればイカリ・ムカムカ・ビビリの誰かがもっと主体的かつ物語の中で効果的に動いて欲しかったな。友情関係の多寡とか派閥とかあった方が良かった。キセキの世代みたいな感じで。色的にも。

感情たちは擬人化されているのだけど、正直そこで意識的にか無意識的にか滲み出てくる価値観が、僕にはどうにも合わなかった。特にカナシミが極めてネガティブなのは設定や語義的にそういうものだとしても、外見的に「太った・眼鏡」であることは、あまりにも偏見をそのまま再現し過ぎなのではないか、と思う。無論、カナシミのように、外見的に「太っていること」や「眼鏡をかけていること」、能力的に「普段の仕事が上手くできないこと」、そして何より性格として「ネガティブであること」が、即ち常に「良くない」ことである、という価値観を強化したいのでは、まったくない(断じて!)。むしろそれらをすべて逆転させたいくらいの気持ちではある、僕としては、本当に。しかし、しかしながら、ディズニー・ピクサーという世界規模で最大手の作品で、それらの要素をそのまま合成して提出したら、結局は偏見をそのまま維持するだけのものになるのではないか、と思えるんですよね…。だからといって、例えば外見を安易に逆転させて、カナシミがスタイリッシュな美女であれば良かったのか、というと、そんなことは一概には言えないし、言うつもりもない。ただ、『インサイド・ヘッド』と比較される『脳内ポイズンベリー』の方が、その外見と能力と性格を合わせた露骨な偏見に関しては、回避はしていないながらに(そこは必ずしも完璧でなくてもいいとも思う)、「納得できた」感じはする。というのも、それぞれの役割設定はあれど、各自の自立の仕方があったように見えたから。そして、ついでに言うと、『脳内ポイズンベリー』(原作)は、『インサイド・ヘッド』とは逆に、「ヨロコビ」に近い側が疑われる作品であるからこそ、その大人の社会的な目線と歪みを含めて、名作だと思っています。『脳内ポイズンベリー』漫画版全5巻なので是非。

どうしても属性や役割を擬人化することで、より滲み出てしまう価値観はある。『艦隊これくしょん』や『刀剣乱舞』は別として、例えば「国」の擬人化である『ヘタリア』あたりが(好ましくない意味で)顕著に政治性を示してしまっていたように、擬人化というものの記号的な偏見については、重要な配慮が必要なはずなのだ。その上で、『インサイド・ヘッド』がその配慮をしていたか、できていたかは、僕はかなり怪しいと思っている。

ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン

http://togetter.com/li/764958?page=1

このTogetterまとめで言われていることは非常に勉強になったし、いずれも肯定的にフォローしている方々なのもあって基本的にその通りだと僕も思っています。特にディズニーのような世界的な作品会社となるのであれば、「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」という概念は、間違いなく必要になっていくと思うし、そうであるべきだと思う。だから、上記まとめで肯定的に言及されている『ベイマックス』は特に適切で上手かったし、ディズニーのアニメでなくても、『パシフィック・リム』や『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が絶賛されるのもよくわかる。これまで「そういうもの」だとか「お約束」として描かれてきた広義の偏見についても、きちんと考えられて練り直された上で作品が作られているというのがわかるから(そういう意味で、僕は概ね現代の作品の方が好きなのだ。例えば手塚治虫の漫画は不朽の名作だと思うけれど、今では差別表現と見られるようなものがさらりと出てきてしまっていることもあるわけで、そこが辛いときもある)。

その政治的正しさ(PC)のあるべき流れで言ったときに、『インサイド・ヘッド』はどうだったのか、というと、やはり、いくつもの偏見が残っているように思えてしまったのが、正直にして残念なところである。ライリーのためなら死ねるイケメンはまだともかくとしても、先述した感情たちの外見はあまりにそのまま過ぎるルッキズムをなぞっている。そしてブラジル人パイロットのくだりも、劇場ではネタとして思わず笑ってしまったけれど、しかしそれはかなり危ういのではないか。蔓延してしまっている偏見をネタとして笑ってしまうこと、それを当然と思ってしまうことの危うさには、作り手としても、見る側としても、敏感になった方が良い、と僕もまたできるだけ考えたいからこそ。『ベイマックス』に比べると、『インサイド・ヘッド』は後退であるように思う。

更に言及するならば、作品の外側ではあるかもしれないけれど、『アナと雪の女王』も『ベイマックス』も『インサイド・ヘッド』も、前座の短編映画はすべて疑問符がつくものだった。「お約束」としてミッキーマウスからゴールド・エクスペリエンス・レクイエムよろしく何度も執拗な拷問を受ける悪役、人間の食べ物を不衛生に食い散らかす犬と何の捻りもない男女の三流恋愛ドラマ、若い女の力で活力を取り戻す老人…、いずれも、「政治的正しさ」と直接的にリンクするかは保留するとしても、旧来の価値観をそのままなぞった作品を、本編に付属させて良いものとして合わせてきているではないか。だから、個人的には『ベイマックス』が「政治的正しさ」について的確だっただけで、ディズニーだから「政治的に正しく配慮されている」とは言えないと思っている。『アナと雪の女王』も「ありのまま」の上手さはあれど、物語的にそこまで革新的だったとも思っていない。『インサイド・ヘッド』も両親の揃った「家族愛」のものとしては突出することもなかった。日本だけの都合で入れられたドリカムの家族写真ムービーについては何をか言わんやである。

『インサイド・ヘッド』の骨格の一つである「ストレスを受けた思春期手前の子供の感情の整理と、イマジナリーフレンド」という意味で言えば、『思い出のマーニー』の方が個人的には好きでした。あれは保護者である大岩夫妻の見守り方が極めて適切だったと思うから。常に適用できる『正しい』教育があるなんて欠片も思っていないけれど、あれほど優しい大人を描けたというだけでも、良い作品だったなと。『インサイド・ヘッド』も、大人の(ついでに動物の)脳内にもまたそれぞれの感情の会議と利己主義があるというのは、それはそれで面白かった点ではあるけれど、都度の教育的態度としてどうなのかというと、なかなかね…。

あと、『インサイド・ヘッド』は親の財布からカードを抜く描写は危うかったのではないか。物語上の都合とはいえ、それこそ未成年の飲酒や喫煙に相当する描くのは好ましくない描写だったような気がする(個人的にはそういう描写が「常に良くない」とまでは思ってはいないけれど、そこもまたディズニー映画としてどうなのかという権威に対する思いはある)。そういや『ベイマックス』でも冒頭から子供が不穏な場所で違法っぽい対戦してたけどね…。

脳内世界のファンタジー描写に関しても、『うみねこのなく頃に』の方が複雑で重層的な意味を構築できていたし好きだったけれど、さすがに『インサイド・ヘッド』と『うみねこのなく頃に』を比べるのはジャンル的に違いすぎるか…。

そういや『インサイド・ヘッド』の作中で重要な役目だったビンボンについて一言も言及してなかった。うん、特に思うことはなかったです。忘却の彼方から『うみねこのなく頃に』の古戸ヱリカのように派手に舞い戻ってきて欲しいですね。そういう作品じゃないけど。イマジナリーフレンドとしては『うみねこのなく頃に』のさくたろうや『思い出のマーニー』のマーニーの方が好み。

そして最後に個人的な感覚そのものになるのだけれど、僕は、あの最近のディズニーアニメの3Dキャラクターが致命的に苦手なのだ。ちょこまかぎゅんぎゅんぶわぁーっと動く3D作画の上手さはディズニーが世界最高かもしれないけれど、ぬるぬる動く2Dの日本のアニメの方が、僕の肌に合うんですよね…。それを言っちゃおしまいなところはあるのかもしれないけれど、僕にとっては、ディズニー3Dアニメこそが不気味の谷なんですよ…。表情の作り方が露骨過ぎるというかね…。

そんなわけで『インサイド・ヘッド』への文句を書き散らしてみました。Twitterの僕のTLで『インサイド・ヘッド』への批判的な見解をほとんど見なかったのはどういうことなのだろうな、と思うくらい、個人的にも政治的にも合わなかった。Twitterでもこのnoteと同じようなことを書いたのだけれど、反応はほぼありませんでしたね…(実写版『進撃の巨人』の文句を書き連ねたときはフォロワーの方々を中心にかなり反応があったのだけれど)。あまり心に響く文章でもなく、「こじつけ」や「瑣末なこと」として見られたのかもしれません。それは、否定できるかどうかは、僕からは言えない。

それでもなお、取ってつけたように見えるかもしれないけれど、『インサイド・ヘッド』は観て良かった映画だとは思っていますよ、実は本当に。

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