「ブッダという男」を読んで

このnoteはなに?

清水俊史の「ブッダという男」を読んだ。
タイトルの通り、本書は仏教、特にその開祖であるゴータマ・ブッダについて書かれた本だが、その内容は合気道、特にその開祖である植芝盛平についてのアナロジーとしても成立するものだと感じたので、今回、このnoteを書いている。

「ブッダという男」の内容

以下に引用するように、本書はこれまでのブッダ研究を批判的に検討し、ブッダがどのような人間で、どのようなことを語り、そこにはどのような先見性があったのかを明らかにすることである。(なお以下の引用部分のページ数はkindleで見たときのページ数である)

今日、全世界に五億人もの信者を擁するともいわれる仏教。この宗教は、ブッダと呼ばれるただ一人の男を出発点としている。そもそもブッダという男は何者であり、何を悟り、何を語ったのであろうか。本書の目的はこれを明らかにすることである。

ブッダという男, p6

筆者は、そのためにいちばんの障害となるのは「ブッダが現代の価値観に照らし合わせても’良い’とされることを言ったはずだ」という私たちの願望だという。

ブッダの歴史性を明らかにしようとする際に、最大の障害となっているのは、仏典の神話的装飾でも後代の加筆でもなく、我々の内側にある「ブッダの教えは現代においても有意義であってほしい」という抗いがたい衝動である。

ブッダという男, p7

ここまて読んでわたしは思ったのだが、これは植芝盛平という男に関しても同じことが言えるのではないだろうか?

植芝盛平という男

当然、植芝盛平開祖(以下、開祖とする)の人間像に対する研究はブッダに比べれば無と言ってよく、そもそも研究自体されていないのかもしれない。それでも、私たちは合気道を稽古する上で開祖の逸話やそのエピソードに触れる機会は非常に多い。
その中で語られる開祖はどのような人間だろうか?

ある人にとっては最強無敵の武道家で、
ある人にとっては深淵を除いた哲学者で、
ある人にとってはこの世の真理を語った宗教家で、
ある人にとっては半神半人の存在かもしれない。

しかし開祖の人間性や、開祖が創始した合気道という武道が時代にとってどのように新規性があったのかや、他武道と比較して技術的にどう優れているのかを批判的に検討した文章は非常に少ない。(当然だがここでいう批判的というのは、合気道や開祖を貶めろというのではなく、既存の資料を鵜呑みにせず適切に距離をおいて客観的に読み解くということである)

多くの人が語る開祖はその人自身が「そうあって欲しい合気道」を反映した結果に過ぎないだろう。数少ない例外としては、いまだ存命でいらっしゃる開祖の内弟子世代の方が、実体験をもとに語られる開祖とのエピソードだけではないだろうか?

ここまで書いたのならその仕事はお前がやれ、もしくはその後に人間としての開祖を明らかにする文書が続くのだろうと思うかも知れないが、それはあまりに大きな仕事で今のわたしには手に余ることは明白である。よって、このnoteはあくまで問題的のみで終えたい。

最後に

自分たちが稽古する武道の開祖は超人的な完璧人間であって欲しい。という欲望はされもが持つだろう。だが、開祖が現代的に価値観から見たときに必ずしもその行動に対して首肯することが容易ではない人間であることを示すエピソードはいくつもあるだろう。
そこに対して「いや、開祖のそのような行動もこう解釈すれば素晴らしい意思の表れで云々」ということは簡単だが、果たしてそれだけで良いのだろうか?
そのような行為は開祖という人間を完璧な存在として神棚にまつり、全肯定以外の態度を封じる行為に他ならないが、それは開祖や合気道がもつ可能性を狭める行為である。
合気道という武道は言うまでもなく素晴らしく、無限の広がりを持った武道なのだから、その開祖についても神棚にまつるよりかは各稽古者が開祖をこの道の先輩として、つまり偉大な一個人として我が身に引きつけ、親しむ必要があるのではないだろうか?

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