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拝啓、菊地成孔さま

先日行われた、セカンド・スパンクハッピー・レトロスペクティヴ
<PERFOrmance le jour suivant>、大変素晴らしいパーティーだったことは言うまでもありませんが、行く前も、そして行った後も、ひどく憂鬱な気分になりました。
 ライブ翌日は、タイムラインに上がってくるパーティーの動画を悲しくなることをおそれて見ることもできず、さらに翌日、やっぱり気になり動画を何本も見ては、涙が止まらなくなったのです。
すでに終わったパーティーのことを、楽しかったことを思い出して、泣く。
とても子どもじみて、無垢な感じがします。
 昨日、修学旅行から帰ってきたばかりの姪と話す機会がありました。
京都はどうだったと聞くと「京都マジ楽しすぎて家帰りたくなくて泣いたから無理すぎる」と言われ「わかる」と即答しました。
この場合の彼女と私のニュアンスは多少ずれていることは承知の上で、私はわかると言いたかったのです。
 先日なにかで読みましたが、人との会話は、かみ合わなくても全く問題なくて、“人とコミュニケーションを取っている”という事実こそが大事なのだそうです。
確かに、先日行った病院内での年配のかたの立ち話が聞こえ、かみあっていないにも関わらず互いにうん、そうなの、あなたも大変ねえと言い合い、互いに満足そうに、別れていくところを見たばかりだったので、まさにこれかな、と勝手に解釈しました。
 完売した会場、新宿BLAZEには約900人、大人も若者も集っていました。



 「電影と少年CQ」のライブも楽しく刺激的で、次はアーバンギャルドのパフォーマンスです。
見るのは数年ぶりでしたが、素晴らしいライブでした。
“修正主義者”の歌詞はいつ聞いても、一緒に歌いたくなります。
♪無修正の恋愛なんて 気持ち悪いわ見たくない
♪自己批判しろ
♪自主規制しろ
 ボーカルの松永天馬もまた、スパンクハッピーの熱心なファンであり、彼らにいまだに片想いしている者たちのひとり、とも言えます。
 数年前、渋谷WWWへアーバンギャルドのライブへ行き、終了後の握手会に参加したことがあります。
行列がメンバーに近づくにつれ、私は予想以上にドキドキしました。
天馬と握手をした際に
「今日のライブはなんとなく、スパンクスぽい感じがしました」と伝えると驚いた表情で、彼らを意識したセットにした、と仰いました。
本当にあのユニットは最高に素敵でしたよね、スパンクスのカバーとか聞きたいです、そうですね機会があれば、ずっと大好きだよね、と言い合い、とても興奮したことをを思い出しました。
 当日、菊地さんはオープニングのご挨拶でも、このライブが開催されたのは、ほぼ天馬が動いてくれたおかげと言ってましたね。
 次の曲が始まるとき、天馬が
「普通の恋をしてください」と言い、イントロが流れたとたん、後ろにいた女の子が「泣きそう」とつぶやきました。まさに私もそうでした。
 菊地成孔名義のシングルカット曲「普通の恋」でした。
 子どもの頃ひどい目にあった女の子と、世界に絶望しているリストカッターの男の子がコンビニで出会い、普通の恋をするという、内容としては子どもじみているともいえる、ただそれだけの歌詞なのですが、アーバンの容子さんと天馬の歌が素晴らしかったのか、普通の恋という観念が自分にはもう失われたもののように感じたからなのか、当時リアルタイムで聞いた頃−バカみたいに何も考えず過ごしていた(今もそうですが…)−を思い出してセンチメンタルになったのか、もしくはどれでもないのか自分でもわからないまま、涙がぼろぼろっと溢れました。
 後ろにいた彼女と私の「泣きそう」もまた別の意味合いだと思いますが、感情表現としては同じことだったのです。
 この場にいる人たち全てに親近感が湧き、スパンクハッピーの、どこがどの曲が、どのライブがどの発言が一番好きなのかを、一人ひとりに問い詰めたくなりました。
勿論、実際にはそんなことしません。



 なぜスパンクハッピーは私を惹きつけて離さないのでしょうか?
…こんな手垢の付いた表現は、なんと野暮ったくて、古くさいのだろうと自分でも思いますが、心底そう感じるから、仕方の無いことだとも思います。
 最初に存在を知ったのは、スタジオボイスに掲載していた二人の写真に、ele-king等で活躍なさっておられる三田格さんのテキスト。
聞きたい、ではなく、聞かねばならないと強く思わせる文章でした。
 楽曲のすばらしさ、ボーカルの岩澤さんにわざわざ指導したというあまり感情をのせてない歌声、エレクトロニカやハウスのトラック、資本主義とか退廃的な思想、贅沢はとても退屈だとかいった歌詞… 惹かれる理由をどれだけ挙げても際限がないように思えます。
 菊地さんが、みんなこういうの、好きでしょ?待ってたでしょ?と言ってもないのに聞こえるくらい、私としては、これを聞いてなにも感じない人は、音楽的不感症だと本気で思うほど、入れ込んでいたのです。
今思えば、なんと想像力の足りない、子どもじみた考え方でしょうか。
当然ですがこんな言葉は存在しないし、どんな音楽を聴いても何も感じないなんてことはありません。それが否定だったとしてもです。
 楽曲からは、未熟とか不安定、幼児性などといったイメージを連想させます。なぜそう感じるのか、私の文章や考えをまとめる技術などが稚拙すぎて、とても説明できそうにありません。
 解散から20年も経っているということが本当に信じられませんが、まだ、同じ熱量のまま魅了され続けていると同時に、この他に聞くべき音楽などあるだろうかと、半ば本気で思っているという痛々しく子どもっぽい自分がいるのもまた事実です。
他にもこの世に聞くべき音楽は、死ぬほど溢れているというのに。

当時はセールスが少なすぎて、リリースが早すぎた、なんて風にも言われていました。
しかし約20年を経た今も、同じ事が言えるでしょうか?
正直なところを申しますと、このライブが決定した際も、結局のところゲストに集まるのは、アーバンギャルドのような、昔からのファンを公言している人たちだけなのか、と辟易しました。チルドレンは増えていないと感じたのです。
しかし、ひとつのライブを作り上げる作業が、いかにパワーとエネルギーと一定のテンションが必要なことか、そしてそれが開催されるのは、いかに奇跡的なことか、この度のライブを見て改めて感じました。
有り体な言い方をすれば、一部の熱狂的な崇拝者、ファンがいるアーティストというのは、そのままほぼ永遠に愛される存在であることです。
活動はなくなっても残った楽曲が、熱狂的なファンを救うのです。それはまるで、燦々と輝く、聖典のようです。



第二期スパンクハッピーの活動が盛んだった2002年ころ、できるだけライブには行きました。
恵比寿みるくのワンマンでは、ライブ前にエステサロンへ行ったという岩澤さんは、ラベンダーの香りのせいで激烈に眠そうな顔をしながら歌い、
タワーレコードのインストアライブでは、菊地さんはティナントをボトルから直接飲んでいました。
青山スパイラルホールのアルバムリリース&DJパーティーも楽しかったです。
岩澤さんはヴィヴィアン・タムのドレスを着て、太いから出したくないと仰っていた脚を、サイドスリットからガッツリ見せていて、菊地さんはよく使うと公言しているティエリー・ミュグレーをステージから降っていました。
その日は隣で踊っていた男の子に声を掛けられ、そのまま朝まで過ごしました。と言ってもクラブを出たらもう外は明るかったので、駅まで一緒に表参道を歩いただけですが。
その男の子に「また会える?キスしようよ」と言われても、えーしなくてよくないとか言ってごまかしていました。美しい岩澤さんと、菊地さんのDJの余韻にひたっていて、心ここにあらずだったのです。
いま思い出すといいじゃんそれくらい、と思います。
 その彼とは3回くらい渋谷でデートして、それきりです。先日のライブにもし来ていたとしても、わからなかったと思います。顔も名前も、全く思い出せないのです。

 会場でコドモスパンクハッピーと呼ばれていた、りりとねねの2人のダンスは圧倒的でした。このユニットが、新たなトラックとAIのボーカルで作ったアルバムの楽曲を流し、それに合わせて踊るのです。
 レトロスペクティヴと言いながらもとても新しいスタイルだと感じましたし、ステージにスパンクハッピー本人登場以上に興奮することなどありえないのに、それを軽く凌駕しているかのようにも見えました。
 どう見ても小6か中1くらいの、もしくはもっと幼いかもしれない女の子が、ドレスアップし、長い手足を思い切り使って、舞台を作り上げる。丸みを帯びる前の、直線的な体躯がのびのびと踊る姿を見るのは、気持ち良すぎて目が離せませんでした。
子どもを出してくるなんて頭がおかしいと言われたしそれは自分でもわかっている、そしてそういうスタイルで今までずっとやってきた、と菊地さんは仰いましたが、以前より
「ダンスとはオナニーのようなもの。だからみんな人のダンスを見たがる」というような発言をしていました。
それはなぜなのかの説明は忘れましたが、頭おかしいと言われる菊地さんの言葉の中でも特に印象的なので、よくおぼえています。

最後は、菊地さんがオリジナルのスパンクハッピーの曲を流すDJプレイでした。
 私のTwitterでの前のアカウント名「拝啓ミス・インターナショナル」も
インスタのアカウント名「午前4時のティー・パーティー」も、
アルバムの曲名からとったものと言ったら、笑うでしょうか?
 拝啓〜を流している際、菊地さんはI love you〜の連呼部分を歌いまくり、指でハートを作って掲げていました。
トラックを止めて、観客にも、I love you〜の部分を歌わせました。
この時会場に響いた、互いの「I love you」の意味は、全く寸分の狂いもなく、同じものだったと強く感じます。
 菊地さんを見ながら、泣けてきて私は歌えませんでしたが、もうなんで泣いてるのかを考えるのはやめました。

帰りの電車で、なんとなく、物足りなさを感じました。つまり私は、踊り足りなかったのです。
それは決して、私が終電を気にしてアンコール前に会場を出たから、という理由だけではないはずです。
 もしこのパーティーがオールで行われ、踊り疲れて朝を迎えたとしたら、私たちは果たして満ち足りたでしょうか。
答えはNOだとはっきり言えます。
私たちはつねに、踊り足りない状態なのですから、ライブでなくても、いつでも好きな時に好きなだけ、音楽を聞き、踊ればいいのです。

 ところで、満足という言葉は、なんて品がないのだろうといつも思います。そもそも、私たちが生きているなかで、満ち足りた状態になるなんてことは、今まで起きた事もなければ、これからも起きそうにもないと思っています。
渇望は、言葉としてはかなりセクシーと感じます。
 このパーティーはひとまず終わりましたが、悲しくはありません。

 スパンクスの曲に合わせて振り付けで踊る菊地さんの姿は、おそらくもう見ることはないでしょう。
だから観客は自分が踊ることも忘れ、楽しそうに身体を揺らす菊地さんを見つめ、スマホを掲げていたのだと思います。
いつも嘘ばかり言う菊地さんのことですから、これもうそであることを祈りたいような気分です。

普段こんなことは言いませんが、言います。
最後かもしれないのですからね。
愛をこめて。