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愛憎には道端で見かける吐瀉物以上の価値はない

人間は袋だ。それはわかっていると知識人階級の皆々様はおっしゃられる。ご高覧いただき感謝いたします。私はどうもこの「わかっている」を聞くと頭に血がのぼるので、労働者階級の泥ゲス野郎のまま死んでいくに違いない。人間が袋に過ぎないことが看過できないのである。ドラえもんの異次元ポケットよろしく、色々なもの、宝石やかけがえなのない物や虹や粗大ごみやノイズや詩や時間や砕かれた歯などが次々と矢継ぎ早に人間の袋に投げ入れられる。涼しい顔をしている強者もいれば、脂汗をぬらぬらさせて震えのとまらない弱者もいるが、とどのつまり、カタストロフィ(終局)を待っているのは全員共通の認識であるように思う。飲みすぎた者はかならず吐く。残念ながら胃の話ではない、魂の話なのだこれは。道端で吐瀉して、仰向けになって、カナブンのように手足をギシギシ動かしながら人間は死んでいく。どれだけ平和的だろうが暴力的だろうが、結末はほぼ同じである。人間が袋に過ぎず、人生はその中の内容物をえっちらおっちらロバのように移動させるだけの単純なお仕事です、と神君家康公は遺訓にお記しになられた。私はそれが気に食わない。立腹である。人生が重い荷物を担いで行き先不明の目的地に向けてただ歩くだけのロングウォークであるとするならば、なんのためにこんな煉獄に生まれてきたのかわからなくなる。美しいものを見て感激してもそれを袋に投げ込んでおいてカタストロフィが来たら全部ぶちまけるのだ。人間の価値とはなにか。ただ二酸化炭素の量を増産させるための害毒なのか。それともこの無駄ともいえる長期の徒歩旅行は素敵な結末を迎えるための助走であるのかもしれないし、などと逡巡していると外野から野次が飛んでくる。賽の河原の石積みよろしく黙って泣いて従ってさえいれば良いのだ、と知識人階級の旦那方はおっしゃられる。ひでえ殿様根性だ。たたき直してやろう。私の祖先の野盗の血がたぎる。革命だ。神君家康公は権謀術策を使って下賤の身分から駆け上がり、他者の袋という袋を粉砕しながら、王として君臨し、やがて自らを神と称した。はいここで終わり。ミッションコンプリートの文字が上空に現れる。へっへっへ。神なので、詰みです。お先にご無礼します。そのほくほく顔の家康公が天ぷらを喉に詰まらせ死んだらしい。あっけないものだ。人生なんて重い荷物を担いでうんたらかんたら。そもそもまあ文字を書けないという家康公だ、全然そんな遺訓など残さなかったのに後の世の果報者たちが面白く書いておいたすぐに使える神君ジョーク集なのかもしれない。人間は袋であるらしい。どうも私はそれが気に食わない。いい袋、悪い袋、普通の袋。きみはどんな袋にする?とえびす顔の両親が幼子の頬を優しくなぜる。幼子は虚空を指差す。空が燃えて落ちてくればいいのに。嫌々ながらも我々は袋を担いでえっちらおっちらと行き先不明の目的地に向かっている。しかしながら、袋の重さは皆同じではない。途中で行き詰まりそっくり返って泡を吹く友を道端に捨てて、私は進む。どうせ煮え湯を飲まされる結末しか用意されてないのであれば、せめて楽しい旅程にしよう。足掻くも足掻かざるも同じなら足掻いてみるか。知識人階級の旦那の袋はキラキラシールみたいに光り輝いている。私のはドブ川色だ。すぐに使えるジョーク集を読んだみたいな、そんな気分に浸る気はさらさらない。素敵な結末など必要はない。私はドブ川の中でさえ生きるのが好きである。袋を担ぐこどなど何ほどのこともない。美しいものを見てもそれをぶちまける目的では収集しないでおこう。世はクラウドコンピューティング時代である。賽の河原、バベル。そんなものは最早昔の終局の形なのだ。

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