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カーテン

あれはある初秋の夜だった。僕は当時付き合っていた女性のマンションに合鍵を使って入って彼女の帰宅を待っていたのだった。土日が休みだった彼女に合わせていたから、金曜日だ。よくよく考えると金曜に彼女の家に行き、次の日は一緒に出掛けたりするのだけど、僕は自分の部屋にいたくないがために、彼女の家に避難していたのかもしれない。僕の家には魔なる物が住んでいた。僕はあの家にいるとギターを奏でたり踊ったりする。時々意味のわからない言葉の羅列を創作したりする。ソファはたゆみベッドは傾いていて、本が山積みになっており重なりそれが全部息をしているような存在感があった。彼女の家に行くとそういった重圧の全部消える。不安も焦燥もない。朗らかで他人を滅多に悪く言わない彼女とその彼女の部屋はよく掃除されていて心地が良かった。僕は彼女の傾いていないベッドに寝そべる。それから窓を開ける。10階だった彼女の部屋は風通しがよくカーテンがひるがえる。目を閉じて現状を認識する。悪くない人生だった。カーテンが秋風を纏ってダンスしている。僕はベランダに出る。それから季節外れの生き残って飛んできて力尽きた蝉の亡骸を掴んで投げる。京急線がけたたましくブレーキ音をさせる。ああ誰かが死んだのかもしれない。僕は身に余る幸運を手に入れた。そしてそれをいつかはどんな形にせよ手放さねばならないことも、僕は知っていた。彼女からLINEがくる。京急線が人身事故で止まったみたいだからひとつ前の駅まで迎えに来てくれませんか?僕はズボンを穿いて家を出る。扉を閉じる前に振り返って確認したが、セイレーンは歌うのをやめてカーテンはもうひるがえってなかった。

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