ask【64】おなら

東京医大にておならが原因で術中発火が起こったそうです。笑ってはいけないが笑ってしまうというような出来事を教えてください。

術中に発火が起きたということの何が笑えるのかがまずわからない。「笑い」の本質は何か、とくと考えさせられる質問だ。ハゲを笑いにする、というのは禿げて見た目がみすぼらしいのを笑うのではなくて、それをビクビクとして隠そうとする他人様の恥の心に触れることで笑いが生じるわけであって、私は流儀上、見てくれを笑いに変換することはないからハゲ弄りはしない。お医者様のことで笑いにできるとすれば、入ると数週間でかならず死ぬと呼ばれる病院(神奈川県の大口病院など)の存在が挙げられるだろうけれど、そこで働いている人たちの色々な意味を含むご苦労を思えば、やはり笑いという面では弱くなってしまう。医者や清掃業者やコックや理容師にはいつも大変世話になっているので、感謝をすることがあっても、笑いの対象にするなどという神をも恐れぬような行為は許されないところがある。ただね、これは鉄板だ、という笑いの場というものがありますね。葬式です。これはもう全部が全部面白い。抱腹絶倒だ。何をしても笑いになる。信じられないだろ、死んでるんだぜ、これ。ぶっはっは。術中におならが爆発して患者が重傷、はまったく笑えないけれど、その患者が死んでしまえば、もう笑える。おそらくこれは哲学とか宗教のジャンルなのでしょう。個人的な葬式の思い出としては、とても目をかけてくれてよく気の合った母方の祖父が鬼籍に入った時の様子がまず浮かびます。この祖父は変わり者で、酒を飲んで家族に手をあげることもしばしばあり、祖母や叔父や母は常に彼の動向をびくびくしながら観察して生活していたそうですが、孫の私には公平で実にきめの細やかな対応しかせず、今思えば、自分と同じで礼儀を知っている人間には礼儀をもって応えるという祖父なりのルールに沿って言動をコントロールしていたのだろうと思います。そんな家族から恐れられる存在だった祖父が死んだ時、残された家族は信じられないことですが、「それでも」祖父はいい人間だった、という力技を繰り出してきたわけですね。祖父はできの悪い孫と同じく本が好きで、自分の世界に閉じ籠りがちだったから、専業農家に不必要な知識を多分にもっていて(ヴィリエ・ド・リラダンの翻訳家である齋藤磯雄の実家から近所の誼で何冊か本を譲り受けている)、それが時に爆発して、文盲である他人を殴ったり、痛飲しては路上で眠ってしまうのをやめられない弱い人だったけれど、その彼が死んだら聖人扱いを受けることには違和感しかなく、彼がいい人間だったという意見には同意できなかった。残された家族たちが、祖父の遺体を眺めて、嗚咽する様子の違和感。それを感じると、私の中に存在する暴力的なまでの笑いが体を駆け巡り、どうしようもなかった。涙はでなかった。母も叔父も、君はおそらく偏執狂の祖父が地上で唯一愛した孫(ニンゲン)で、忠実なお弟子であるから、心ゆくまで泣いていいのだ、とむせびながら言うのだけれど、まったく悲しくなかった。笑ってはいけない場面だったけれど、私は笑ってしまった。祖父は柄にもなく、白粉を塗られ口紅をさし、美しい洋種の白い花々と一緒に棺桶に入れられていて、ほんとうにおかしかった。ザ・スミスのモリッシー気取りかよ、と思ったわけ。死後、急にオカマに転向した様子の祖父の遺体と、その周囲を囲む使徒たちの図柄はなかなか刺激的で。タペストリーに織り込んで後世に伝えるべき景色だったね。つまり笑いの本質とは、「変容すること」を受け止められるか否かの、選択を迫られることではないでしょうか、という話をしました。君はどう思う?

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