ザ・ビッグナイト

海を見ていた。夜の海だ。どーんどーんと波が打ち寄せる音以外は無音だった。その人と初めて待ち合わせて会った時、彼女の乗る電車は人身事故の影響を受けて大幅に遅れていた。知らない土地で知らない人の骨や肉が悲鳴と一緒に車輪に絡まって知らない駅員や知らない警察官たちが現場検証をしたりビニール袋に肉片を拾ったりしているファンタスティックな想像が僕を尻込みさせていく。知らない夜の出来事。彼女が僕の肉片をビニール袋に溜息をしながら入れて行く。これは十二指腸。これは肩甲骨。これはアキレス腱。で、これは血まみれの夢。改札口を小走りで彼女は通り抜けてきた。予想よりもずっと綺麗な人だった。息を切らせて彼女は喋る。ごめんなさい。こんな日に。上杉謙信や長嶋一茂のような天才肌はインスピレーションを大切にしているため、初戦や初回の小競り合いで運命を占うのだという。だとすれば、これは吉兆でいうところの大凶である。しかも初デートで初焼き肉という暴挙は人身事故の味付けをされ、僕は壺漬けカルビ肉を焼きながら彼女を泥棒のように盗み見ている。中学生の頃に懸想していた器楽の先生に彼女はよく似ていた。僕は器楽の先生の家で飲んだロイヤルミルクティーを思い出す。それからファンシーな家の内装。古ぼけた不思議の国のアリス。首のもげかかった因幡の白ウサギのぬいぐるみ。ごめんなさい。こんな日に。僕は肉片を拾う。知らない土地の知らない人々が笑ったり跳ねたり轢かれたりロイヤルミルクティーを淹れたりしている。こんな大事な日にふさわしい死だよ、とは言わなかった。上杉謙信も長嶋一茂も大戦の前には必ず生贄を捧げた筈だ。彼女ははにかんで肉片を焼き続ける。思っていたよりもずっと楽しそうな人だった。これが十二指腸。これが肩甲骨。これがアキレス腱。で、これが血まみれの夢。僕はビールを煽る。彼女も曖昧に笑ったり何かを喋る。全く内容が脳に入ってこない。そもそも大声で伝えなきゃいけないことなど何もないのだ。横もその横もみんな何かの肉片を焼いてはビールを煽る。フレッシュなサラダが欲しかった。そして瞬く星が見たかった。肉が焼ける。曖昧な笑顔と酒毒だけが脳にダメージを与えた。偉大なる夜と大きな嘘に乾杯を。焼肉店を出て夜の街を歩く。僕の方が年長者であるが、女性の方がずっと年上の様な雰囲気がある。よく言えば昭和。悪く言えばいや悪く言っても昭和。零落している地方の街は活気というものがない。そこいらのバーで飲み直そうと彼女は言う。こんな時はとっとと連れ込み宿に入っちまうのが正解だ。そんなものがあればの話だが。夜の地方都市は薄暗くて連れ込み宿のネオンは駅前などにはない。連れ込み宿という連れ込み宿はオートマチック乗用車が必要であり、地方都市ではラブホではなくモーテルと発音する。驚くべきことにセックスするにはガソリンを満タンにした乗用車が要るのだ。シフトレバーが性的な合図になる。僕が地方風俗の研究に没頭している間に時間は過ぎてしまった。いけない。もうこんな時間。南瓜の馬車のお迎えが来ますわ。ごめん遊ばせ。彼女は僕の熱い熱視線をひらりとかわし改札口に吸い込まれていく。僕は十二指腸を肩甲骨をアキレス腱を喪って幽霊のように知らない夜の街を歩いた。それからベンチに寝転び空を見上げる。星はひとつも見えずに夜の鳥、姑獲鳥がゲーゲー鳴いていた。地方都市には妖怪がまだ生きているわけか。トルルル。電話が鳴る。トルルル。ガチャ。もしもし私リカちゃん。身体が熱く疼くの。

海を見ていた。夜の海だ。僕は彼女の手をそっと握る。彼女は曖昧に笑って何かを喋っているが波の音で何も聴こえない。彼女は夜の海にガソリンを満タンに入れた乗用車で僕を連れてきた。海坊主の話をしながら怖ろしい夜の海を背景に写真を撮る。偉大なる夜と血まみれの夢、それから大きな嘘に乾杯を。

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