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サラダチキンの味

鳥を飼ってみて思い知らされるのは、鳥には知性が人間同等に備わっているという紛れも無い事実である。捕鯨反対を叫ぶ動物愛護団体にも色々な種類もあられようが、要するに人間の生み出す思想には碌なものがないことを証明するためだけに存在するのが彼らだというマトリョーシカ式の矛盾を内包しながら活動できるだなんて尊敬に値する。動物には残念ながら人権は与えられていないが、彼らに自己を主張できる機会があったら真っ先に我々を檻に閉じ込めるのを止めろと言ってくるだろう。クジラには知性があるから殺して食べてはいけない。暗くて不潔な鶏舎に繋がれて抗生物質やいわれのない暴力に身を晒されて一生を終える鶏にも同じく知性があるし、豚や馬や鹿や熊や牛や羊にも喜怒哀楽があり花鳥風月を楽しみ歌を歌い踊って恋をし他者の死を悼み芸術を愛することができるのだから、殺して食べてはいけない。では人類は残らずベジタリアンになればいいのか。もちろんそうだ。ただ人類は多すぎるので、地上で賄えるくらいの農耕資源が足りない。宇宙に飛び出して農作物を作るか全人類を抹殺するしか選択肢はない。動物愛護団体がどういう主張をしているのか正確には知らないが、安易にテロリズムに走っている現状を鑑みるに、彼らの根底にはアナキズムが根を張っていて、実際問題として彼らには真に愛護すべき動物(家畜)が見えておらず、単に支配階級を淘汰することが目的の団体であることが分かる。サラダチキンをコンビニで見かける度に私は心が痛む。暗くて不潔な鶏舎に繋がれて抗生物質やいわれのない暴力に身を晒されて一生を終えた鶏の成れの果てがサラダチキンである。ボサボサヌルヌルしていて気色の悪い最低な食物になるために彼らは生まれてきたのだ。せめて、日の光を充分に浴びて走り回り突つき飛び踊って恋を歌うことのできるビューティフルライフを彼らが送ってくれてさえいれば、こんな目でサラダチキンを眺めずに済むのだが、それは私の弱さである。そんなノスタルジックな感傷主義は好みではないのだ。まとめよう。鳥は人間と同じように感情を持った生き物である。残念ながら動物に人権は与えられていない。動物愛護団体は動物を愛護するための組織ではない。劣悪な環境下にある鶏舎が地獄であるように、我々の人生もまた地獄である。食肉への無関心は福利厚生の観点から見れば家畜たちへの攻撃である。戦争は我々の無関心が招く災厄である。人類は滅びつつある。サラダチキンの味は不味い。せめて美味しくいただく義務が食べる側には発生する。クジラにはもしかすると本当に知性があって、動物愛護団体を使って全人類を抹殺するチャンスを窺っている可能性もある。だとしたら、それはとても素敵なことだ。私はラッセンの描くキラキラしたイルカと殴りあいたい。幻想と寝てはいけない。私は闘う。よければ君もどうですか。

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