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令息物語

茫然自失と泰然自若は似ている。辞書的な意味合いでいえばこれは大変な間違いであるが幸にして私は教職に就いているわけではないし、死刑囚に懺悔の機会を許す坊主や牧師でもないので、己の思うがままに論じてもよかろう。茫然自失と泰然自若は似ている。漢字の二文字が一緒である。茫の意味は果てしがないであり、泰の意味はやすらかである。自若と自失は反意語のようにも感ぜられるが、元々若いというのは弱いという意味も含んでいるからドローである。むしろ自失をしている人間は死兵と呼んでもいい状態で何をしでかすかわからない危機を孕んでいる。行為に狂気はつきものだ。狂気がなくて金閣は燃やせるものではない。泰然自若として燃え盛る金閣を眺めていて何になろう。

11月になった。非科学的なことを恐れずに告白させてもらうと私にとって11月はあまりいい月ではない。飼い猫が死んだのも11月だし、入水自殺を図って失敗して沖から泳ぎ戻ってきたのも11月で、20年ほど前に鹿子さんを妊娠させてしまったかもしれないのも11月だ。馬野鹿子さんは信用金庫の職員をしていて、私はその頃時折バンドマンとして高円寺や下北沢などでノイズ音楽を演奏するクレイジーな自称詩人という恥の多い人生を過ごしており、全女性の敵であった。しかしながら敵に塩を送る人種というのは不思議なもので一定数存在しており、鹿子さんはたまたま訪れた高円寺のライブハウスで出会っただけのどこの馬の骨かわからないような年下の僕ちゃんを可愛がる気持ちが黒雲のようにもくもくともたげてきて、武蔵野女の嗜みか、全女性の敵を家に呼び入れて手厚い看護を与えてしまったのである。私は当時世話になっていた女性の家から飛び出して鹿子さんの家に転がり込んでよろしくやっていたわけであるが、ある日突然、鹿子さんは泡のように消えてしまうことになった。私が鹿子さんのアパートで暮らし始めて三か月後に異変は起きた。彼女の両親は中流家庭の中の中の地方公務員と獣医の間にできた一粒種で目に入れても痛くないくらいの溺愛ぶり。その両親が揃ってサプライズの誕生日プレゼントを持って玄関に立っていたのが11月の大安吉日で、私は鹿子さんの元彼の置いていった穴開きジーパンを穿いて台所で即席麺を作っているところであった。

馬野鹿子さんは電話口で両親から叱責を受けたことと二ヶ月近く生理が来ないことを早口で喋り私の言葉を待たずに、もう二度と会うことはできないと自若とした態度で宣言して電話を切った。茫然自失となる暇もなく私は荷物をまとめてまた違う人物の家に転がり込むことになった。

冗談ではない。馬野鹿子さんが私の子を身籠ったのかは定かではない。裁判所の内容証明を受けたこともないし、そもそも鹿子さんの実家がどこにあったのかも正確には知らない。赤の他人が人生の重要な登場人物になり、しかも第一幕の前半には早くもサヨナラと言い残して去ってしまった。私は11月を怖れるようになった。あれから沈黙の20年が過ぎた。私の令息は中流家庭の中の中の環境で育ち、信用金庫の職員になったに違いない。令息は時折自分のルーツについて思い悩むだろう。己の中に潜む血のたぎり。脳に強制的に流れる爆音のノイズ。奇妙な言葉の螺旋が闇夜に浮かんで回転する。これでは身の破滅だ。彼は夜な夜な女性物のパンティを穿き、アイスホッケーの面をつけ、花柄のワンピースを着て誰もいない川原でバットを素振りするだろう。

父親の私に彼にしてやれることは何もない。私の気持ちは果てしなくやすらかである。茫然自失が売りの私は私自身のことで悩むことを自若として放棄してしまった。燃やせる金閣が私には既にない。しかしながらあなたの父は焼け野原に投げ出されたわけでもない。願わくば、あなたの素振りに込められた想いが誰かへ届きますように。

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